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荼枳尼天発、ジビエ経由、瞑想の旅(後編)


5月に入り、猟をする知人から鹿肉を頂いた。

自分で料理するのは初めてだったが、すでにきれいに下処理をしてくれていておかげで、そのまま圧力鍋で煮ることができた。

遠い記憶の舌が覚えてる味は生姜たっぷりの汁だったが、思った以上に生姜を要した。
臭みはまったくないが、料理の段階からいつもの匙加減では収まらないパワーを感じていた。

ちょうど同じ頃、我が家の長男が胃腸炎で一晩吐いたのをきっかけに、進学で張りつめていた糸が切れ、食欲をなくしてしまっていた。

二度と吐きたくないと、プリンやアイスも小さな口で恐る恐る食べているのだから、まさか息子が鹿肉に手を出すとは思わなかった。

ところが、切って冷ましていた肉の小さな1枚を摘んで口に入れたのだ。

「どう?」
「うん…美味しいよ」

その後、息子はこの鹿肉をきっかけに、数日かけて少しづつ食欲を取り戻した。

この瞬間の出来事は、「命をいただいたのだ」という、私の中で疑いようのない実感があった。

肉食に関しては賛否両論がある。

実際、鹿はウイルスが怖いという衛生学的な意見と、鹿の念があるから食べないほうがいいという神性な意見と、この長男の鹿肉談話は別方向からそれぞれ反対意見をいただいた。

私はビーガンでもアンチビーガンでもない。
人それぞれ想いが嗜好を決めることだってある。

ただ、この北海道で生きた先祖が熱量として肉食することは、生きる為に必要だったと思っている。

アイヌが命をいただく上で儀式を大切にし、捨てる所なく料理する姿勢にシンパシーを感じ、それを尊敬するのは前世の記憶だろうか。

実際、私もスピリチュアルを生業とするならば肉食は避けるべきかと、そんな実感を伴わない知識が肉に罪悪感を生んでいた。

そもそも歳を重ね、肉を食べたくない胃腸の日だってあるというのに、何か神性な理屈を探したりもした。

しかし、そんな頭でっかちな知識を悠に乗り越えて、この日いただいた鹿はさっきまでは山を走っていたであろう鹿だという事も、十分酷なことをしたと腹に落ちた上で

「命を有難うございます」


息子はそのいただいた命、しっかり使いきります。どうぞ天にお還ください。

そんな想いが溢れた。

私と息子は今もこの話をする。
彼も最近ではオーラが見えるようになり、母のよそでは迂闊に話せない氣付きを理解できる。
彼もまた、自分の身体を使って命を天に還したのだとわかっているのかも知れない。



この三次元の地球は清濁併せ持つ世界だ。

遠いレムリアの時代はプラーナだけで生きられたかも知れないが、まだ私はその域には届かない。

生きるための戦いがあり、誰かの犠牲の上に立っている私がいる。

さらさらと清水に浸り、醜悪を見ず自分も汚れず生きる事は、むしろこの世界では自然に背いている。

陰の自分を甘んじて受け入れ渦中に立ち、この肉体を泥臭く生き切って然るべきなのだ。

情報が溢れるほど迷いが出る。
左脳で生きると間違ってしまう。

今、私がすべき事はこの身体で感じた自分の感覚を信じる。

それがのちに間違いだったとしても
何の保証がなかったとしても
耳触りの良い情報を繋いだ知識だけを信じてはいけない。

闇があるから光が生まれる
誰かに光をもたらす事も
誰かの光を輝かせるための闇を担うことも

同じ愛なのだ!


これが荼枳尼天が私に教えてくれたことなんだな…

長い長い旅。

荼枳尼天からジビエ

そして自分の内側に辿り着いた壮大な瞑想(迷走)の旅。

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