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「ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ」のミュージカル映画という形式が必然だった理由

 2019年公開の「ジョーカー」について監督のトッド・フィリップスは
「これは格差社会の問題点を描いた映画だ」
と語っていて、だから同作に影響を受けた犯罪者が実際に出現しても、映画が「社会的弱者による反乱」を教唆するものではないことを表明していた。

 実際、「ジョーカー」は現代における資本主義社会がすでに臨界点に達しつつあることを、主人公アーサー・フレックが精神的にも肉体的にも、そして社会的にも追い詰められていく様を通して描いていた。また、意図的な演出としてアーサーの物語は「神の視点=観客の視点」である客観と、「アーサー自身の内面」である主観という2つの異なる視点から描かれており、それらの視点がシームレスにつながっているため観客は目の前で起きている出来事が物語上で実際に起きているのか、それともアーサーの妄想なのかが分かりにくい仕組みになっていた。これは現実社会における各市民の「個としての姿」と、社会全体の中の「衆としての姿」が必ずしも一致しないこととの相似と見ることもできると思う。そしてこの「姿」は、前者は「個としてのアーサー・フレック」であり、後者は「衆の中に位置するジョーカーという名のペルソナ」という形で劇中に現出することになる。

 RKO時代のフレッド・アステアの代表作の一つ「踊らん哉」がアーサーの自宅のテレビで放送されており、劇中歌「Slap that base」の「世界は混乱し、政治と税で人々は争う。幸福なんてないんだ」という意味深長な歌詞が歌われる中、アーサーは蛹から羽化するが如く、ジョーカーという新たなペルソナを獲得していく。それは極限まで追い詰められ、もはや自らの妄想の中に逃げ込むだけでは済まない限界点に達しつつあるアーサーにとって、究極の「逃げ場」でもあった。だからジョーカーとしてのアーサーには、すべては「夢の中」のような出来事であり、分断された2つの社会の中で、一方(アーサー)は存在を否定され、もう一方(ジョーカー)は熱狂と共に肯定されていく。その混沌とした状況は、実のところ現代の先進国が陥っている袋小路状態のメタファーでもある。

 アダム・スミスは「国富論」において経済を体系的に論じたが、社会の上位に位置する為政者たちは、集まった富を再分配して社会全体の幸福を追求するだろうと説いた。だがその後マルクスが「資本論」において喝破したように、経済ピラミッドの上位に位置する者たちは、富の分配などせずに、可能な限り独り占めをしようとするようになる。そのため資本主義社会における経済格差の状態は不可逆的に広がっていく一方であり、政治家や資本家らが声高に「人々のために格差はなくしていかなければならない!」と叫んで「市民に寄り添う者」を演出してみせたとしても、実際には何もせずに富が自分らのところに集まってくるのを静かに笑みを浮かべながら見守るだけとなる。それはまさに「理想」と「現実」の悲しい共存であり、夢を見させる「理想」という表面の裏側には、過酷な「現実」という動かぬ事実が揺ぎなく存在していることになる。
 映画「ジョーカー」におけるジョーカーは、だから見放された大衆にとっては「過酷な現実を破壊してくれる」ひとつの「理想」であり、ジョーカーという仮面をつけることで、大衆は自らの現実からの「逃避」が可能になる。だからこそ狂乱の中で大衆は喝采を上げて映画は終幕するのだが、対する「ジョーカーの中の現実」である「アーサー自身」の物語は、収容所に閉じ込められ審判を待つ、という「逃避」とは180度逆な状況で幕を閉じることになる。これが前作「ジョーカー」の基本構造である。

 こうした「現実の資本主義社会に対する強烈な皮肉」として世の中に一撃を加えた作品に対し、その続編はどのような物語となるべきだろうか。監督のフィリップスと主演のホアキン・フェニックスはその答えを模索し、そして「ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ」という回答を世に送り出した。ミュージカルという形で

 厳密に言うと監督のトッド・フィリップスは本作は「ミュージカルではない」とわざわざ否定している。しかし実際には明らかにミュージカルという形式をもって本作は構成されているので、「これはミュージカルだ」と見做す人も多いと思う。ただ一般的に「ミュージカル」は一部の例外を除き、その基本構造は「圧倒的幸福感」とそれに伴って紡ぎ出されるストーリーとなる。だから本作を単純に「ミュージカル映画」と定義してしまうと、それは「すべてが肯定されるハッピーエンドへ向かう映画だ」と勘違いされてしまう可能性が出てくる。本作がどのような結末を迎えるかは見てのお楽しみだが、少なくとも観客が簡単にイメージできるほど浅いものではないし、いずれにしても物語の方向性を何らかの形で示唆してしまうようなある種の〝誤解〟を「ミュージカル映画です」と明言することによって、フィリップスは観客に与えたくなかったのだと思う。そう考えていたら、実際、ヴェネツィア国際映画祭での会見でフィリップスはこう語っていたという。
「本作をミュージカル映画と呼んでしまうと、前作は単なるアメコミ映画になってしまう。しかし描いているのはそれだけではない。私はミュージカルを見ると幸福な気持ちで見終わるが、この映画はそうではないだろう。だからミュージカル映画と呼ぶことでミスリードしたくなかったんだ」
つまり本作を理解するためには、印象としてのミュージカルではなく、あくまでもその「形式」がポイントとなるのだ。
というわけで、フィリップスの言う〝ミスリード〟を避ける意味でも、本稿で「ミュージカル」というワードを用いるに当たっては、あくまでも「形式」に関することだと念を押しておきたい。

 そうした前提に立ったうえで、改めてこの〝ミュージカル形式〟を大々的に取り入れるという、この演出的大転換とも思える判断を評価するなら、前作からも含めて振り返って考えるとまさに最適解だったと言えるし、本作がミュージカルであることはまったくもって必然だったとさえ思える。

 前作で社会を揺るがした〝ジョーカー〟ことアーサーは、本作でも「挫折した人々」にとってはある種の「英雄」であり、憧れの存在となっている。しかしアーサー自身はあくまでも「打ちひしがれた一人の市民」のままだ。だから劇中で描かれる裁判でも「果たしてジョーカーという別人格は存在するのか」という問いかけを掘り下げることによって、〝アーサー=ジョーカー〟が犯した罪の実際を明らかにしていくことになる。

 前作で掘り下げられた「格差社会の実像」とは、つまるところは「弱者である大衆の絶望」そのものでしかない。そして本作ではその「絶望」の中にあって「人々は何に希望を見出していくのか」が描かれる。その「希望」とは「ジョーカー」という存在であり、だから物語はこの「ジョーカー」というペルソナの実態がなんであるかによって大衆の運命も左右され、そして何よりもアーサー自身の運命も避けがたい審判に直面することになる。だが、アーサーの運命については前作から続く本作が完結編であることを考えると、その結末は必然的な決着となることは明らかだ。だからより興味深い物語としての道のりは「ジョーカーという希望にすがる大衆」の行く末がもう一つの本筋となっていく。そしてその象徴的存在としてレディ・ガガ演じるリーという女性が登場するのである。

 現代社会の破綻に絶望した大衆がすがるのはいつの時代も「夢物語」だ。1929年に始まった世界大恐慌の時代、貧困にあえいだアメリカの大衆が夢中になったのはRKOによるアステア=ロジャースという黄金コンビのミュージカルシリーズだった。時にユーモラスで、時にロマンチックなミュージカルナンバーはアーヴィング・バーリン、ジェローム・カーン、コール・ポーター、そしてジョージ・ガーシュインといった稀代の音楽家たちが書き下ろした、今やスタンダードナンバーとして数えられる名曲の数々だ。これらの音楽と夢物語に大衆が酔いしれたのは、そこに「逃避場所と安息」を見出すことができたからだ。彼らにとってアステア=ロジャースが演じる恋物語は魅力にあふれたフィクションであり、だからこそリアリティなど関係ない、気にする必要すらない脳天気な物語が次々と作られていった。

 「ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ」は古き良き時代のアニメーションというスタイルと、前作で決定的な役割を果たした楽曲「Slap that base」と共に幕を開けるが、このシークエンスで皮肉的に描かれているように、本作における大衆にとっての「夢物語」とは「ジョーカー」であり、その偶像的存在に大衆は無責任にすがりついている。リーを代表格とする「ジョーカー支持者たち」がそれに該当する。一方、その対極としてジョーカーの存在自体をアーサーによる演出として否定する「ジョーカー否定論者たち」もいる。彼らの境遇をわけ隔てるものは、前作のような「資産状況による階層的分断」ではなく、精神性による「思想的分断」だ。だから医師の家に生まれ、自身も医師であるリーはその精神性においてこそ「ジョーカー」に強く惹かれている。そして彼女は彼に近づくためにはありとあらゆる「嘘」を駆使して行動する。のちにアーサー自身もリーに対してた大きな「嘘」をついていたことが明らかにされるが、リーの「嘘」をリー自身が何の罪の意識もなく平然としていられるのは、その対象があくまでも「夢物語」であり、ジョーカーという「偶像」、つまりは「作られた虚像」へ寄り添うためだからであって、それによってこそ彼女の精神的平安が得られるからである。「ジョーカー」こそが彼女が望んでいることを代わりに実現してくれる存在であり、理想なのだ。

 こうした彼女の心象風景、そしてそれを受けてのアーサーのリアクションとしての心象風景は「ミュージカルナンバー」として描写される。それはまさに華麗で幸福に満ちた瞬間であり、文字通り「夢の実現」である。この主人公の心の「逃避場所」としてのミュージカル描写という手法は2000年にカンヌでパルムドールを受賞したラース・フォン・トリアー監督の「ダンサー・イン・ザ・ダーク」と同じだ。絶対的幸福感が基本的な骨格であるミュージカルという枠組みを逆手にとってネガポジ反転させた演出を用いることで「絶対的不幸」な物語を描いたこの作品は、だからそのテーマ性において本作と通底する。そして「ダンサー~」において、最終的には「色鮮やかな妄想場面」ではなく、「色あせた色彩の現実」の状況で主人公セルマが歌いだし、周囲の人物らが唖然とするという、観客にも強烈な違和感を与える場面がクライマックスとなったのと同様に、本作は終盤に進むにしたがって、その「夢物語」の実像が少しずつ明らかになってくるようになる。

 ここまでの流れの中で、観客は「リーとアーサーが描く夢の世界」に惑わされてしまうのだが、結局のところリーが求めていたのはあくまでも〝ジョーカー〟であり、アーサーではないのだ。だからリーに大して冷たい言い方をするならば、〝ジョーカー〟というペルソナを内包するアーサーは、彼女の欲求を満たすための「コンテンツ」でしかない。彼女にとって〝ジョーカー〟はこの世で最高のエンターテイメントだった。そしてリーと同様に貧困で打ちひしがれた〝怒れる大衆〟にとっても〝ジョーカー〟はエンターテイメントであり、「消費の対象」なのである。劇中、収容所でやはりアステアの代表作である「バンド・ワゴン」の中から「ザッツ・エンターテイメント」の場面が引用される意味はまさにここにあると思う。そして銀幕の中のエンターテイメントがやがて幕が閉じられてしまうように、人々の夢の前にも「格差と貧困」という「幕」が静かに、そして冷酷に下りてくる。そのどうしようもない悲劇性を対位法的に際立たせるためにも、本作がミュージカルという形式を選んだことは慧眼だったと思うし、結果として本作は前作と合わせた1本の作品として評価することで「アーサー・フレックの悲劇」という名の、毒を含んだ風刺劇として真の完成を見たと言えるのである。


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