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「ナイブズ・アウト」シリーズが持つ、ミステリーとしての致命的欠点とは

 ライアン・ジョンソンは「スター・ウォーズ 最後のジェダイ」で、それまでの作品の世界観を壊したことで多くの批判の声を浴びることになった。もちろん賞賛する声も一定数あったが、どちらかと言えば否定的な意見の方が多かったことは、一連の出来事が「炎上」と表現されていることからも分かると思う。

 当時、個人的には彼の行った「変革」の意味は、次作の「エピソード9」がリリースされることで、パズルが完成するように全容が明らかになるはずだと信じていて、それゆえに前作「フォースの覚醒」も踏まえた上で、作品が描いたものの意味を考察したりもしたものでした。ディズニー時代のスター・ウォーズ・サーガは、ルーカス時代と異なり、2年ごとにリリースするスケジュールになっていたから、新たな3部作は少なくともルーカスがそれまでにしてきたように、最低限、3部作の大まかな流れは決められた上で計画されているものと思い込んでいたから。実際にはディズニー3部作の制作陣は3作品を通したヴィジョンもなく、ストーリーをその都度一から考えていたので、結果として3部作だけでなく、サーガ全体を通しても整合性のない、単なる「娯楽映画」になってしまっていたのは非常に残念なことだったと思う。

 この辺の失望を語り始めるとキリがないので割愛するけど、ひとつ特筆するならば「最後のジェダイ」にはそれまでの「スター・ウォーズ」にはない要素が含まれていた。それは「ギャグ」。一番分かりやすい例は、「宇宙船の着陸かと思ったカットがアイロンだった」という場面なんだけど、こうした「笑いをとるだけの場面」にもファンは反発した。
で、このことについてジョンソンは先日、「過去のスター・ウォーズにも同じような場面があったから批判は筋違いだ」と反論している。彼が言う「同じような場面」とは、例えば「ジェダイの帰還」でイウォークに丸焼きにされそうになるハン・ソロが、近づいてくる松明の火をフー、フーと口で消そうとする場面のことなんだそうだ。
 このイウォークの場面は確かに笑いを誘う箇所なんだけど、これは「ギャグ」ではなく「ユーモア」であって、この2つを混同している点が、ライアン・ジョンソンという監督の持つ最大の欠点なんではないかと、最近では思っているし、最新作「ナイブズ・アウト:グラス・オニオン」を見た後ではこうした彼の様々な「浅い認識」が問題なのだと確信に変わっている。

 前作のダニエル・クレイグが探偵に扮したミステリー作品「ナイブズ・アウト/名探偵と刃の館の秘密」は、ジョンソンが「最後のジェダイ」の次に手がけた作品で、「アガサ・クリスティのようなミステリーをやってみたい」とかねてから発言していたものを実現したものだ。この作品は評価も高く、続く2作品の映画化権も売れてシリーズ化がすぐに決まった作品だ。
 個人的に映画は全般的に好きだけど、ミステリーは特に好きなジャンルなので、「最後のジェダイ」での失望はあったものの、業界内での評判もよかったのですぐに鑑賞した。が、どうもね、それこそ探偵や刑事のセリフではないけど、「何かがこう、引っかかる」感覚が常に残っていて、それほどの満足感は得られなかったのが正直なところ。特にクレイグ演じる探偵ブランのキャラクターがどうにも好きになれなかった。主人公の探偵のキャラクターにあまり好感が持てないというケースは往々にしてあるし、クリスティの生んだエルキュール・ポアロだって鼻持ちならない性格の持ち主だったりもする。でもポアロはそれでも好きだけれど、クレイグ演じるブランはやっぱり好きになれなかった。両者の間には何か違いがあるのか。そんなことを感じながらも、物語は真相が劇的に明らかになっていく。だけどやっぱり「何かが引っかかる」感覚は変わらなかった。

 なので、鑑賞当時は「傑作とは呼べないけどまあまあかもね」というかなり甘めな評価をして、あとは綺麗に忘れていたんだけど、先日、第2作となる「ナイブズ・アウト:グラス・オニオン」が公開されて視聴した結果、それまでに引っかかっていた「何か」の正体が判明したのだった。

 結論から先に言ってしまうと、この2つの作品には「謎解き」がないのだ。もちろん探偵ブランはどちらの作品でも「真相を明らかにする」という役割は果たしているんだけど、彼は「かくかくしかじかでこうなった」ということを「かなり正確に語る」のだけれども「なぜその結論に至ったのか」という「推理」の過程は一切語っていないんだよね。彼が語っているのは「隠された真相」だけ。でもミステリーの醍醐味は、探偵なり刑事が「真相に辿り着いた過程」であり、「推理の道筋」だ。それはポアロにせよ、シャーロック・ホームズにせよ、ドルリー・レーンにせよ、みな同様だ。

 「グラス・オニオン」ではまずエドワード・ノートン扮する実業家マイルズが仕掛けたミステリーパーティーの「解答」を、開始早々にブランは「解き明かして」みせる。そして場面は彼の発言通りの「オチ」が展開され、マイルズも「時間かけて準備したのに・・・」と言って間接的にブランの発言が正解だったことを認める。ところがここでブランはなにも実際には推理しておらず、「ただ正解を言っている」だけだ。正確に言うと、「推理はしているかもしれないがその内容は語られない」のだ。
 これは例えばより評価の高かった前作の「ナイブズ・アウト」でも同様で、彼は様々な「真相」を語ってはいるけど、「なぜその結論に達したのか」という論理的説明はされていない。クライマックスの謎解き場面でも、彼は「空想的真相」は語るが、その「空想」を現実としてに補完する事実関係はヒロインであるマルタが提供しているし、最終的には彼女の機転で引き出された犯人の自白によって事件は解決を迎えている。

 劇中での「ブランの謎解き場面」は細かいフラッシュバックで詳細に語られるから、観客は「そうなのね」と思うことにはなるんだけど、「結論に至る推理の糸口」すら、実は提示されていない。「ナイブズ・アウト」では比較的前半の場面でマルタのスニーカーに血痕がついていることが観客には明示され、それがブランの推理のきっかけになったと最後に明かされるが、これもまた「それらしい発言」でしかなくて、その事実がどのように捜査の上で広がり、発展していったのかは明かされてはいないのだ。
 「そんなことはどうでもいい」という意見もあるかもしれないが、この作品が「ミステリー」を自称するならば断じて「どうでもよくない」と思う。たとえ画面上に推理するための材料が明確に描写されていなくても、さらには観客が知り得ない「過去の事件の詳細」から導き出される因果関係などが推理の根幹だったとしても、それらの要素が「ちゃんと気持ちよく説明されること」がミステリーには必須なのだから。
 そういった意味ではライアン・ジョンソンは、「ギャグ」と「ユーモア」の区別がつかないように、「謎解き」というものの本質を理解できていないんじゃないかと思う。「事件の真相を語ること」と「事件の真相に辿り着いた論理的道筋」はまったく別のものだ。
 ホームズの生みの親、アーサー・コナン・ドイルは、実生活でも自身の観察力と推理力を駆使して、無実の死刑囚の命を救ったことがあるが、まさに「警察が見落としている事実から真相を導き出すことができた」からであって、緻密なロジックで構築された推理によって成し遂げたことだ。ホームズの読者に限らず、人々がドイルを賞賛したのは、彼の描き出す「推理の物語」が常に論理的だったからであって、一方のライアン・ジョンソンの場合は実際には「謎解き」がされていないのだから、あくまでもそういった「雰囲気」で話が進んだに過ぎない。だから「ナイブズ・アウト」シリーズの最大のトリックはここにあるとも言えるんじゃないだろうか。つまり「観客に良質なミステリーを見た気にさせるが実際には何も論証されていない」という意味である。

 「観客へのくすぐり」という意味でいうと、「グラス・オニオン」において顕著なのが「実在のセレブ」への言及だ。中にはセリフだけでなくカメオ出演している人物もいるが、ここで重要となるのが「ジェレミー・レナーのタバスコ」だ。
このタバスコは映画の中盤で重要な役割を果たすことになるんだけど、その役目を果たすには主人公であるブランがこのタバスコを持ち歩いていなければならない。もし問題の場面でタバスコ(まあ、ケチャップでもよかったけど)がなければ、物語自体が破綻してしまうからだ。だからこのタバスコは普通のタバスコではダメであって、「ジェレミー・レナーがプロデュースした特別なタバスコ」であることを示した上で、「お土産にどうぞ」という形でブランのジャケットのポケットにタバスコは収まることになる。
 これは劇中における「最大の偶然」となるんだけど、この偶然がなければ事件が解決できなかったかもしれないことを考えると、「天才的名探偵」と称されるブランの能力とはいったい何なんだろうと疑わざるを得ないのだが、全編に渡って「実在セレブ関係のエピソード」が語られているため、問題のタバスコの存在感が平均化されてあまり目立たなくなっている。これによって観客の中には「おお、上手いこと状況を乗り切ったね」と膝を打って喜ぶ人も出てくるわけで、実際にはご都合主義の極みな事実が浮き上がってしまわないようにしている。これは巧みな工夫だとは思うが、所詮は「推理なきミステリー」を成立させるためのトリックでしかなく、個人的にはここで完全に興味が失せたところでもあった。

 セレブ関連での興味深い事実でいうと、冒頭でブランは浴室でオンラインゲームに興じているが、そのノートPCの画面には4人の人物がオンラインでつながっていた。ここに女優のアンジェラ・ランズベリーと作詞家のスティーブン・ソンドハイムがカメオ出演しているのだが、ランズベリーはクリスティ原作のテレビシリーズ「ジェシカおばさんの事件簿」で主人公を演じ、同じくクリスティ原作の映画「クリスタル殺人事件」ではミス・マープルを演じていたので、これは「クリスティ・リスペクト」という意味のカメオだ。一方のソンドハイムはというと、実は彼は俳優のアンソニー・パーキンスと共に1本だけミステリー映画の脚本を書いたことがあり、ライアン・ジョンソンはその映画が好きで、前作を製作する際にも参考にした映画のひとつとしてタイトルを上げていた。それは「シーラ号の謎」という作品なのだが、影響という点で言えば今回の「グラス・オニオン」の方が決定的に強い。

 「シーラ号の謎」のストーリーはハリウッドのプロデューサーが仲間の映画監督や女優、脚本家、タレントエージェントなどに招待状を送りつけて、自家用ヨットで催すミステリーゲームに参加させるというもの。実はジェームズ・コバーン演じるプロデューサーの妻は1年前にひき逃げで殺されており、ゲームに招集された6人のメンバーの中に犯人がいると彼が考えたのではないか、と招待客らが困惑しながらゲームが進む、というストーリーだ。

 元々、ソンドハイムはパーキンスと2人で仲間のセレブ相手に定期的にこうしたミステリーゲームを主宰していて、ある時、ゲストに招かれた映画監督のハーバート・ロスに「君たちこれで映画の脚本を書いてみたらどうだい?」と提案されて実現したのがこの映画だった。だから「シーラ号の謎」は言い出しっぺであるロスが監督を務めているんだけど、正直言って彼はミステリーがあんまり上手いとは言えないと思う。彼は他にも「シャーロック・ホームズの素敵な挑戦」というパスティーシュを映画化しているけど、この2つのミステリーよりも「フットルース」や「摩天楼はバラ色に」「マグノリアの花たち」といった作品の印象の方が強いんだよね。
 それでもこの「シーラ号の謎」は謎解きもちゃんと行われるという点でも「グラス・オニオン」よりは面白くできていると思う。余談だが劇中で使用される豪華ヨットは「アフリカの女王」「波止場」「アラビアのロレンス」などでプロデューサーを務めたサム・スピーゲルの私物だそうだ。また映画監督のジョエル・シューマッカーが本作では何と「衣装デザイナー」としてクレジットされているのも興味深い点だ。コバーン以外のキャストは映画監督役をジェームズ・メイソン、アン・マーグレットをモデルにした女優がラクエル・ウェルチ、実在のエージェント、スー・メンガースをモデルにしたというエージェント役を当時実際にメンガースがエージェントを務めていたダイアン・キャノンが演じていてなかなか豪華だと思う。驚いたのが「ジョン・ウィック」シリーズでホテルの支配人を演じていたイアン・マクシェーンがウェルチの夫役で出演していて、その若さと溌剌さに変な意味で感心してしまった。

 というわけで、ライアン・ジョンソンが「シーラ号の謎」を気に入って土台にした気持ちはよく分かるんだけど、でもソンドハイムらは実際に何度も主催したミステリーゲームで「謎を作り上げ、謎解きをさせてきた」という実績があったので、脚本家としては門外漢だったが、それなりに面白い映画に仕上がっているわけで、やっぱりここでも「謎解きの有無」が作品評価の分かれ目になっているのだった。

 「グラス・オニオン」と同時期のミステリーで言うならば、レイフ・ファインズとアナ・テイラー=ジョイが主演した「ザ・メニュー」の方が、「ボートで出迎え」「孤島での出来事」「各界の有名人が招集」という意味での共通点があり、こちらは行き過ぎた感のあるグルメブームを、店と客の双方を皮肉る痛烈な風刺映画として仕上がっていて面白かった(厳密に言うとこれはミステリーではなくサスペンスなんだけどね)。他にはディズニープラスで配信されたサム・ロックウェルとシアーシャ・ローナン主演の「ウエストエンド殺人事件」が「クリスティ関係」「舞台や映画のセレブたち」といった要素が共通していて、コメディでもあるという点からも気軽に見られて面白かったと思うので、口直しにはいいのではないかと思います。

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