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いかにして「地獄の黙示録」は「反戦映画」となりえたのか

 映画「Apocalypse Now(現代の黙示録)邦題『地獄の黙示録』」の企画は南カリフォルニア大学時代にジョン・ミリアスが考えたもので、これに当時同級生だったジョージ・ルーカスが協力というか応援する形で、漠然とした状態で徐々に煮詰められていたものだった。物語の土台はミリアスが長年愛読していたジョセフ・コンラッドの小説「闇の奥」で、舞台を19世紀のアフリカから現在のベトナム戦争へと移すことで、ベトナム戦争の狂気をブラックな笑いを含んだエンターテイメントにする、というものだった。ミリアスが脚本を執筆し、ルーカスが監督するという構想は何となく決められてはいたが、この頃はまだミリアスはベトナム帰りの友人たちに聞き込みをするなど、取材段階だったというが、ルーカスはこれを16ミリの白黒フィルムで撮影し、カリフォルニアでロケをしてドキュメンタリータッチの作品にするというビジョンを持っていた。
 大学卒業後のルーカスはコッポラと出会い、仲間たちと共に「アメリカン・ゾエトロープ」を設立して本格的に映画製作に乗り出す。当時コッポラは、ワーナーで「フィニアンの虹」を監督しており、その縁もあってゾエトロープの企画はまとめてワーナーに提出された。ミリアスはルーカスを通じてコッポラと出会い、ゾエトロープ用の企画として正式に「地獄の黙示録」の脚本執筆を依頼され書き始めた。というわけで、ワーナーに提出した企画の中には「地獄の黙示録」も含まれ、その他に「カンバセーション…盗聴」や「THX1138」などがあった。
 ゾエトロープの代表としてコッポラは、「地獄の黙示録」を第1回作品としてルーカスのデビューを飾らせようと考えていた。しかし当時まだ継続中だった戦争を題材にすることにワーナーが消極的だったため、企画はルーカスの学生時代の短編「THX1138-4EB」を長編化した「THX1138」へと変更された。
 ところがこの「THX~」が批評家の受けはよかったものの、興行的に大失敗に終わってしまう。そのためワーナーは残りのゾエトロープの企画をすべて突き返してきた上に、契約金として渡されていた金の返金も求められてしまう。
 ルーカス自身は「THX~」の失敗により、「もっと大衆が楽しめる作品を作らないと自分のキャリアが終わってしまうかもしれない」という危機感から次作を自らの青春時代を題材にした「アメリカン・グラフィティ」と決めていた。同じく「THX~」の失敗でワーナーに借金している形になってしまったコッポラは、何とかして金を稼ぐ必要に迫られていたが、ちょうどパラマウントから「ゴッドファーザー」の監督の依頼が舞い込んでくる。当初は気乗りのしなかったコッポラだったが、ルーカスの勧めもあって結局「ゴッドファーザー」の監督のオファーを受けることになる。その製作中にコッポラは「パットン大戦車軍団」でアカデミー脚本賞を受賞し、「ゴッドファーザー」も記録的成功をおさめ、さらには「カンバセーション…盗聴」がカンヌ映画祭でパルムドールを受賞するなど破竹の勢いとなる。そしてルーカスも「アメリカン・グラフィティ」が特大ヒットとなり、次回作として「スター・ウォーズ」に取り組むことになった。ミリアスはすでに「デリンジャー」で監督デビューをしていたが、「地獄の黙示録」を自身で監督するつもりはまったくなかったし、すでに「風とライオン」の製作にも入っていた。
 こうした流れの中で、コッポラの中では「地獄の黙示録」を自分で監督するという欲求が膨らんでくる。それはやがて抑えられない感情へと発展し、ついにコッポラは製作を開始する。本来ルーカスが監督するはずだったことから、コッポラとルーカスの関係が当時悪化したとの報道もあったが、実際には関係は円満だったようで、1979年の早い段階で2人は共に師と仰ぐ黒澤明監督の「影武者」の海外プロデュースを共同で務めたり、黒澤をサンフランシスコに招いてスピルバーグやスコセッシなど他の仲間らを交えて会食もしている。
 「地獄の黙示録」の当初のクライマックスは、ハイテクを駆使して攻撃を仕掛けてくる米軍を、ウィラードが地元民たちを率いて迎え撃つという展開になっていた。これは当時の厭戦意識や戦争の大義への疑問が反映されたものだった。ルーカスは後にこの「ローテクがハイテクを駆逐する」という構図を「スター・ウォーズ ジェダイの帰還」で「帝国軍vsイウォーク族(と反乱軍)」という形で再現することになる。また、1979年に製作総指揮を担当した「アメリカン・グラフィティ2」のベトナム戦争のパートでは、16ミリカメラを駆使して、ほとんど自分で監督してしまったというが、この場面はルーカスが構想していた「地獄の黙示録」のビジョンが色濃く反映された非常に興味深い場面になっている。

 さて、コッポラは「地獄の黙示録」を正式に自身の次回作として発表したのだが、米国防省からは協力を拒絶され、最終的にロケ地と決めたフィリピンでは軍のヘリが撮影中に軍の任務優先でどこかへ行ってしまうといったトラブルに加え、ウィラード役のハーベイ・カイテルの演技がイメージに合わないために降板させるなど、製作は最初から苦難の連続だった。巨額の予算をかけたセットが台風で壊滅状態になったり、グリーンベレーの精鋭という設定のカーツ大佐役のマーロン・ブランドが激太りして現場に現れたことなどは今や伝説となっている。
 こうして予算を大幅に超過した「地獄の黙示録」の撮影は、最終的に440時間分ものフィルムという結果となった。これをもとに使えるカットだけを編集したワークプリントがまず作られたが、その長さは約5時間という長さだった。1977年1月の時点での話である。

 ジョン・ミリアスの脚本は初期の段階から音楽に関する指定がなされていて、ドアーズやワーグナーの「ワルキューレの騎行」、ストーンズの「サティスファクション」などが選ばれていた。コッポラは5時間のワークプリントに「仮トラック」としてこうした音楽をすでにあてていた。完成したオリジナル版ではドアーズの楽曲は「ジ・エンド」だけだったが、ワークプリントでは「おぼろな顔」や「夏は去りゆく」などが哨戒艇で進んでいく場面などで使われていた他、「まぼろしの世界」「音楽が終わったら」も使われていた。「サティスファクション」はストーンズではなくオーティス・レディングによるカバー盤が使われていたが、これは単にストーンズの音源が手元になかったのだと思う。「ワルキューレの騎行」は映画で使われたのと同じショルティ指揮のウィーンフィルハーモニーの演奏が使われている(コッポラはコメンタリーなどでこの演奏はカラヤン指揮と勘違いしている)。カーツの砦に物語の舞台が移ってからは、ストラビンスキーの「春の祭典(バーンスタイン指揮、NYフィル演奏)」が多用されているのもワークプリント版の特徴だ。
 また、冨田勲の代表的アルバム「惑星」から「金星」も使われているが、これはそもそもコッポラが冨田にサウンドトラックの依頼をしていたことに由来するものだ。契約関係上の問題から冨田が作曲することは叶わなかったが、その冨田のテイストをコッポラは求め続けた。コッポラがカンヌでパルムドールを獲得した「カンバセーション…盗聴」では、音楽をデヴィッド・シャイアが担当していたが、当時彼はコッポラの妹、タリアの夫でもあったので、コッポラとは義兄弟の関係にあった。そこでまずはシャイアに劇伴音楽の作曲が依頼され、冨田のような電子音楽が求められた。シャイアは約20曲を作曲、またはアレンジするが、これらの曲はコッポラから却下されてしまう。その原因として、当時結婚生活が破綻しかかっていたシャイアに対し、妹思いのコッポラが対立したからという話が伝わっているが、これは真偽が不明だ。シャイアがタリアと離婚したのは「地獄の黙示録」の公開後となる80年のことで、作曲の依頼がなされた頃にどの程度夫婦関係がこじれていたのかは定かではない。一方で、シャイア本人の証言として、「映画の製作進行が大幅に遅れていたので、しばらく保留にして別の映画の依頼を受けたい」という申し出をコッポラにしたところ「解雇されてしまった」というエピソードがある。これは信ぴょう性があると思う。結局、コッポラは「ゴッドファーザー」2作でも協力してもらった実父のカーマイン・コッポラに作曲を依頼し、シャイアは依頼があった別の映画「ノーマ・レイ」に取り組み、後にアカデミー歌曲賞を受賞するという結果を残した。ちなみに没になったシャイアのバージョンは、近年になって音源が再発見されてサントラ盤としてリリースされたが、全体的には実に「冨田勲チック」で意外に悪くない。ただし「ワルキューレの騎行」が電子音楽にアレンジされてものはまるでダメで、そもそも米軍のヘリコプターから流される設定だったのだから、アレンジされた映画音楽ではなく、レコード化された既成曲でなければおかしいので、この点だけは謎である。

 ところで、ミリアスが「地獄の黙示録」をスタンリー・キューブリックの「博士の異常な愛情」のようなブラックコメディとして構想していたのに対し、コッポラは「ナバロンの要塞」のような戦争超大作を目指していた。これは巨額の儲けを出すことで、今後は小規模な作家性の高い作品を作っていきたいと考えたからだった。だからそこには「反戦メッセージ」を盛り込むなどという考えは毛頭なく、コッポラ自身も「これは反戦映画ではない」と断言している。それは当初の予定が変わり、「娯楽大作」から「芸術大作」へと路線変更をしても変わらなかった。

 実際、完成した「地獄の黙示録(オリジナル版)」はベトナム戦争の狂気を迫力ある映像で描いた傑作戦争映画とはなりえていたが、反戦メッセージは希薄な作品だった。そして2001年に再編集を経て53分もの未公開シーンが追加された「特別完全版」が公開され、作品が持つ「戦場の狂気」は格段に深みが与えられたが、反戦という観点では「戦争の不条理」を描いたカットは増えたものの、メッセージ性は中途半端なものだった。
 しかしそもそもコンラッドの原作「闇の奥」は西洋文明の植民地政策への批判がテーマの一つだったし、ルーカスが「地獄の黙示録」を念頭に手掛けたとされる「アメリカン・グラフィティ2」にしても「ジェダイの帰還」のイウォーク戦にしても、ルーカスなりの「反戦メッセージ」は明確に存在していた。それは「闇の奥」という物語が本来持ち合わせている「西洋社会による搾取文化に対する否定」というテーマが必然的にそうさせるのであって、だから「地獄の黙示録」という作品には企画段階から「反戦」というDNAがプログラムされていたことになる。その上、製作にあたってコッポラが悩みに悩んだことで、多くの助け舟が彼を助けていた。
 編集のウォルター・マーチは「この物語にはソンミ村虐殺事件(ベトナム反戦運動のきっかけにもなった米軍による虐殺事件)が必要だ」とコッポラに進言し、サンパンと呼ばれる木造船に対する検問という形で虐殺が起きてしまう場面が生まれた。
 「アメリカ兵がベトナムの小さな村で子供たちにポリオの予防接種を行ったところ、その後、子供たちはベトコンによって全員注射した腕を切り落とされていた」というエピソードをカーツがウィラードに話して聞かせる場面があるが、これはマーロン・ブランド自身がコッポラに教えた逸話だ。  
 そしてカーツの居室にフレイザーの「金枝篇」、J・L・ウェストンの「祭祀からロマンスへ」が置かれ、T・S・エリオットの「うつろな人々」をカーツが朗読するという事実は、王国の主であるカーツが後にウィラードに殺害され、ウィラードが新たな王になるという「王殺し」を示唆し、聖杯伝説が示すように試練を経ることである種の「永遠の存在」となる可能性を示しているが、こうした一連の書籍や哲学をコッポラにアドバイスしたのはデニス・ホッパーだった。
 そして戦場で死を迎えた戦士たちをヴァルハラという楽園へ送り届ける役割を担うワルキューレたちが歌う「ワルキューレの騎行」が、私欲や嗜みのために大量殺戮を行うという「キルゴア中佐の蛮行」の場面に使われたり、反戦の思いを歌い続けてきたドアーズの音楽を使うことを、そもそもの企画の発案者であるジョン・ミリアスが最初から決めていたことも重要な事実だ。こうした様々な「反戦」の要素が、コッポラの意思とは裏腹に次々と作品の血となり肉となっていたのである。最終的にそれは表面化することになり、「地獄の黙示録」という映画史に残る作品は、「反戦映画」として歴史に残る作品としてついに完成したのである。「ファイナルカット」という形で。

 「未知との遭遇」や「ブレードランナー」にいくつものバージョンが存在し、最終的に監督自身の手で「ファイナルカット」が作られたことは、ファンにとっては嬉しい出来事で、過去のバージョンごとに違いを探しては楽しんだりできた。「未知との遭遇 特別編」ではオリジナル版に比べて宇宙人との科学レベルの圧倒的な違いが明確になっていたり、「ブレードランナー ディレクターズカット」では「デッカードがレプリカントである」という可能性が強く暗示されるようになった。だがこうした違いは作品全体を通したテーマが根本的に変質するほどのものではなかったと思う。
 ところが、「地獄の黙示録 ファイナルカット」には劇場公開時のオリジナル版、2001年の「特別完全版」と歴然と異なる違いが生じていた。「地獄の黙示録」という作品は、紆余曲折を経て「完全無欠な形」に「変質」していたのだった。

 先にも述べた通り、コッポラはオリジナル版、そして特別完全版は共に「戦争を題材にした映画ではあるが反戦映画ではない」と語っていた。その理由をコッポラは「どんなに悲惨な状況を映像化してみせても、観客は戦場の描写に本能的に魅せられてしまう傾向があるから、反戦を謳うのであれば戦場から離れたところでそれを描くべきだ」と言っていた。実際、本作のヘリによる襲撃場面は映画史上に残る名場面として数えられ、多くの観客が「迫力」と「興奮」を感じた上で「カッコいい」「素晴らしい」と形容しているし、私自身も長年の間、この場面では興奮したものだった。

 一方、ラストシーンでカーツを倒して新たな王となったウィラードは、カーツを殺害した武器を捨て、王国の住人達もそれに倣って武器を捨てる。これは決定的な反戦メッセージの場面だ。ベトナム戦争の実状とアメリカの傲慢さに絶望したカーツは、カンボジアのジャングルで自らの王国を作り、戦争という「武力で物事を解決する人間」というものの業について思索しているが、その理想を推し進める過程でカーツはやはり人を殺す。それは映画の全編で描かれてきた「人を傷つけた後で絆創膏を渡し、征服した後にその地の王となる」という、20世紀まで人類が続けてきた侵略行為と根本では変わらないのだ。

 結局、狂気の中でカーツは「理屈では平和を理解しながらも武力でしか解決できない人類」というもののメタファーとなっていく。対するウィラードはカーツを武力で倒しながらも、その武器を捨て去ることで「人類の理想とする未来」を提示する存在となる。そう、これこそまさに「反戦のメッセージ」だ。
 これは明らかにコッポラが言う「反戦映画ではない」という発言と矛盾するのだが、それはこの作品というか、題材自体がそもそも「反戦」や「先進国による支配への反発」というテーマを含有していたことが影響しているのだと思う。

 ここで初公開時のバージョンを振り返ってみると、映画は戦場における狂気を数多く描きながらも、キルゴア中佐の「サーフィンしたいがために集落を攻撃する」という有名な場面を筆頭に単に「興味深い場面」の羅列にしかなっていないし、70mmバージョンには間に合わず、35mm版にのみ含まれたエンドクレジットの背景は、米軍によって爆撃されて炎上崩壊するカーツの宮殿の様子だ。これはその直前の場面でウィラードによって行われた「戦争の放棄」と明らかに矛盾する。とにかく長年の撮影と編集で追い詰められていたコッポラが、一応撮影していたこの場面をエンドクレジットとして使った気持ちはわかるし、公開当時はあくまでも「戦争映画」という位置づけだったので多くの観客は多少の違和感は感じたものの、「あの爆撃シーンはすごい」などとやはり肯定していた。しかしコッポラ自身は観客からの指摘もあってこの矛盾に気づき、「特別完全版」では正式にエンドクレジットを削除してこの矛盾を解消した。

 さらに「特別完全版」では長すぎる上映時間を短縮するために「オリジナル版」ではカットされていた場面の多くを復元していたが、これはもっぱら「もったいなかったし、いい場面だから」という理由だった。ところがこれは多くの点でオリジナル版にはなかった「反戦」の要素を明確に打ち出す結果になっていた。

 例えばキルゴア中佐にウィラードたちが初めて出会う場面では女性戦場カメラマンが横たわる数々の遺体や攻撃を指揮するキルゴア自身を撮影するカットが追加されたことを皮切りに、話題となったサーフィンの場面に2つの視点を明確にする効果をもたらしている。
 1つ目は戦場における「矛盾」だ。そもそもオリジナル版でも負傷した敵の北ベトナム兵をねぎらい、バカにした味方の兵士を突き飛ばして自分の水筒の水を与えようとする場面。著名なサーファーであるランスがいると知った途端にキルゴアが水を求める兵士を忘れてしまう描写は公開当時笑いを誘った場面だった。しかし彼の「水を与えようとする行為」は、兵士の勇気を称えるというモチベーションは理解できるものの、やはり「傷を負わせた後に絆創膏」パターンだ。そして評論家からも喝采されたナパーム弾による攻撃の場面では新たに、傷ついた赤ん坊を何とかしてほしいと泣きつく母親に対し、自分のヘリを使わせ、母親も同行させるという配慮を見せるキルゴアの姿が、ナパーム攻撃と並行して描く形で追加されている。このキルゴアの行為の「矛盾」は繰り返されることで観客に大きく違和感を植え付ける効果をあげている。
 2つ目の視点は「サーフィン」で、そもそもの攻撃のきっかけが「いい波でサーフィンをしたい」というキルゴアの私欲であり、その結果、一つの集落が敵の拠点とはいえ壊滅状態になる。それは紛れもなく大量虐殺の場面で、迫りくるヘリコプターのカットの次に、学校から避難を開始する子供たちのカットに繋がった時には胸が締め付けられる思いになる。その後に続く殺戮も、すべては「一人の男がサーフィンをしたかったために生じた出来事」で、ナンセンス極まりないが、こうした描写を観客として長年の間「カッコいい」としか感じていなかった。これがコッポラの言う「本能的に魅せられてしまう」というものなのか。結局、ナパームの影響で風の向きが変わり、海岸にはサーフィンにいい風が来なくなってしまってキルゴアの望みは砕かれるという皮肉な結果になる。こうした一連の様子を苦々しく見ていたウィラードが最後にキルゴアのサーフボードを略奪して逃走する描写は、矛盾だらけの戦場におけるウィラードの価値観や行動規範を分かりやすく提示していて、このことは映画のクライマックスへの伏線にもなっていて効果的だと思う。

 その後、一行はプレイメイトたちによる慰問を見学するが、「特別完全版」ではプレイメイトたちが乗り去っていったヘリが燃料切れで不時着し、船の燃料と引き換えに彼女らを抱けるという場面が追加されている。これは実際の台風が吹き荒れる中、必死になんとか撮影した場面だったそうだがファイナルカットでは削除されている。2010年に行われたインタビューで、ジョン・ミリアスは、先のキルゴアの存在はギリシャ神話におけるサイクロップスであり、不時着したプレイメイトたちはセイレーンなのだと説明している。セイレーンに取り込まれた者は岩となって死を迎えてしまう。そうなると川を上っていくウィラードたちの旅に矛盾が生じることになる。だからミリアスとしては脚本に書いたものの、「オリジナル版」ではこの場面がカットされていたことを喜んでいた。逆に「特別完全版」で復活していたことにネガティブな感情を持ったようだった。当時、このことをインタビューで聞き出したコッポラは少なからず意外そうな表情をしていたが、こうしたミリアスの意図を知ったことで「ファイナルカット」ではカットしたのかもしれない。いずれにせよ、この場面ではウィラードたちよりもプレイメイトたちにフォーカスが当てられ、戦場における彼女らの役割への理解が深まる程度にしか意味はない。だから「戦場における狂気」のエピソードを散りばめた「特別完全版」では意味を持つが、「反戦」を明確なメッセージとする「ファイナルカット」では不要な場面なのである。

 続いて一行はジャングルの奥地に時代に取り残された形で存在するフランス人居住者たちに遭遇するが、この場面は映画の撮影当時から話題になっていたものの、オリジナル版からはカットされていた幻の場面で、「特別完全版」で復活している。
 この場面のポイントは2つあって、1つはいまだに植民地時代の価値観で生き続け、「自分たちの土地は守り抜く」と言い張るフランス人たちの愚かさで、これはやはり武力で勝ち取った植民地と、それにすがる者たちの醜悪さ、そして同時にベトコンを生み出したのはアメリカ自身であることを告発した場面である。もう1つはロクサンヌという未亡人とウィラードの短いロマンスだ。ここでは未亡人は最初からウィラードに惹かれていて、最終的に2人がベッドで共になることを暗示して終わるのだが、「無数の死」を描く映画の中で「生命の誕生」に関わるセックスの描写(たとえ快感目的であっても)は重要なアクセントとなっている。ウィラードが「生き残る」ことも暗示される点からも、先のプレイメイトたちとの行為とは質が違うことがわかる。

 カーツの王国に到着したウィラードがコンテナに監禁され、彼にカーツが戦争に対する楽観的な見通しを掲載したタイム誌の記事を読んで聞かせる場面も追加されている。ここはメディアの無責任な凡庸さを描いた場面であり、エピソードとしては面白いが、特に反戦的メッセージを持つ場面ではない。そのためだろうか、ファイナルカットではこの場面は再びカットされている。

 カットした場面の多くを復活させた「特別完全版」は、このように多くの反戦的要素が濃くなったにもかかわらず、不必要な場面も混在していたことで、依然として「戦争映画」だった。しかしエンドクレジットの爆撃場面を削除したことにより、コッポラの中に、戦場の描写を主体としながらも反戦映画として成立しうる可能性が芽生えたのではないのだろうか。
 このコッポラの心の中の疑問は、2005年公開のサム・メンデス監督の映画「ジャーヘッド」によってさらに膨らむこととなった。「ジャーヘッド」では出撃を控える兵士たちに「地獄の黙示録」のヘリ襲撃場面を見せるシーンがある。これは「ジャーヘッド」の編集をウォルター・マーチが担当したという縁もあってのことだと思うが、とにかくサム・メンデスからコッポラは使用許可を求められた。その意図は「反戦メッセージ」として使いたいとのことだったが、前述したようにコッポラは「反戦メッセージは戦場ではなく、そこから遠く離れた日常の描写によって描くべきだ」と考えていた。だから当初は映像使用許可に否定的だったが、最終的には許可を出している。そして「戦場を舞台にしても反戦映画は作れるのだろうか」と考え始めたのだという。
 すでに詰め込めるだけの要素は「特別完全版」にはすべて入っていた。だから後はそこから「反戦メッセージ」において不必要な要素だけを取り除けばよかった。こういうわけで、細かい点ではいろいろと変更点はあるが、「特別完全版」から「プレイメイトを抱く」「コンテナでの会話」という2つの場面を削除しただけで、「偉大ながらも半端さも併せ持った戦争映画」は「究極の反戦映画」へと変質したのである。

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