【特撰記事#1】「話す」「聴く」「書く」
メンバーシップメンバーに向けた初の考察ネタです。落語を10年やっていること、営業を28年やっていることなど、これまでおこなってきたことを可視化し、考察し、共有する”場”であります。
何をやっていたのか、なぜそうなのかを振り返りや内観の技術を用い、
落語をものさしにして綴っていきたいと思います。
今回の考察は、「話す」「聴く」「書く」です。
営業の場面では、「聴く」「話す」が大事だとされています。特に現在は、「聴く」ことが「話す」ことより上位概念に立っている傾向にあるように思います。
さて、落語の場面ではどうでしょうか。5つのカテゴリーに分けて考察しました。
1.話すこと
落語では、話しができないと話しになりません。それが商売道具なのですから。うまい噺家さんの寄席にいくと、言葉が洗練されています。落語にはもともと落語にある語彙が豊富なことに加え、噺家さん独自の言い回しが、洗練されていて、耳への収まりがとてもここちいいのです。
噺家さんの話す言葉が洗練されるのには、理由があることをつきとめてしました。僕自身、演者として高座に上がっている経験からこの理由にたどりつきました。
それは「聴くこと」です。
2.ただ聴くのではない
「聴くこと」と書きましたが、高座中に聴き手であるお客さんと会話ができるわけではありません。では、「聴くとはなにか」ということになりますが、それはお客さんの「反応」です。
噺家さんは、どうすれば聴き手のお客さんに「おもしろかった、来てよかった」と思っていただくかを、日々考え、工夫されています。
工夫とは、言い回しや「てにをは」の使い方、息の入れ方、間の取り方、仕草の加え方などを指します。
その工夫を高座で演じ、お客さんの反応でもって、よかったかどうかを判断しています。反応を噺家さんは全身で受け止めて聴いているのです。
全身で聴くことは、傾聴の技術につながっているとぼくは考えています。なので噺家さんは話し上手であり、また聞き上手でもあります。噺家さんにカウンセリングをやってもらうのはとても効果のあるセッションとなるでしょう。(たぶん噺家さんにカウンセリングをする発想はない。ど真ん中ではないので、されないだろうな)
3.聴くとはなにか
話は変わりますが、うちの親父や親せきのおじさんは、みな職人でした。大工や左官を生業としていました。
職人は体感覚が大切な要素であります。よく、「親方の背中をみて学べ」ということを耳にします。実際、うちの親父もそのように教わったようでした。
見ると全身で聴くことと同義と捉えています。
親父の世代以前は特にそうなのかもしれませんが口数がすくない。親方も一から十まで丁寧には教えてくれない。全神経研ぎ澄まして「聴く」しかなかったではなかったのではないかと思います。。
「聴いて」「試して」を繰りかえし、技術を自分のモノにしていったのだと思うのです。
4.書くこと
噺家さんを含めた職人の世界で、あまりおこなわれていないでことが、「書くこと」だと思っています。厳密には、「書き残す」こと。
うちの親父も筆不精だったし、親せきのおじさんたちも自分たちの技術を書き残しているようすはない。
おそらく、噺家さんで自分の技術や心情を書き残しているかたは一部ではないだろうか。ただ、大御所と言われる噺家さんは書き残している傾向があるように思います。三遊亭圓朝師匠や桂米朝師匠など。
体感覚でおこなうことの要素が強い職業ほど、感覚を大切にしているかわりに書き残すことの優先順位が低くなっていると思うのです。
しかし、このことは職人に限らず、ぼくたちも書くことの重要性に気がついていません。
5.言語化の重要性
「書くこととはなにか」を問うたとき、「無意識でおこなっていることの言語化である」とぼくは定義づけています。
言語化できると何がよいのか。自分の技術の再現性がとりやすいことであると考える。(一方で言語化することの弊害もあると考えている。このあたりは別途考察したい)
少なくとも、親父やおじさんの大工や左官の技術というのは僕たちは目にすることができません。いっぽうで書き残している職人さんの技術は僕たちにも目にすることができます。この違いはとても大きいと思うのです。
実は、落語のことをブログのネタに選んだのも、文華師匠ら噺家さんたちのおもしろさや、奥深さを言語化したいと思ったからなのです。
親父の大工の技術や心情は残らなかったけども、噺家さんの技術や心情を残していければと思ったのです。ぼくにとっては大工さんも噺家さんも同じカテゴリーの人たちなのです。
落語の技術や心情の可視化を通して、生活やビジネスに役立ててもらえれば幸いです。
もし刺さる根多でしたら、木戸銭歓迎です。寄席代にして、さらなる刺さる根多を仕入れてきます。