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 シャ!社会!➖IN!

 社会の一員とは何であろうか。

この言葉が意味を為すところは余り多くないようである。

近しいところで言えば、猿さん、犬さん、蟻さん、蜂さんとかがそうであるらしい。

というか本題は人間である。

人間が社会性の動物であるというのは、すんなりと理解出来ると思う。

見た感じ、群れているし社会で生活している。

では、皆さんはご自分のことを、社会の一員であると認識されているだろうか?

人間は地球に住んでいて、何処かしらの国家に属し、さらにまた何処かしらの地域に住まわれていることだろう。

もっと言えば、あなたは生まれた瞬間から、
社会に組み込まれる。

そして、社会の一員であることを望まれ育っていく。

何故なら人は、社会性の動物であるからだ。

その社会から外れてしまった場合、つまり、
社会性があまりにも欠如してしまえば、社会に馴染めずつらい思いをしたり、場合によっては危険分子として扱われるかも知れない。

この世界で生きて行くにおいて、社会性のない場所などないだろうし、人間は生物学的にそうなのだし、変えようのない特性なのだから、生きて行くには、少なくとも群れの中に居なくてはならない。

さて、話は少し変わるが、昨今では地域の活動、祭りや交流会などに参加する人が少なくなって来ているようである。

これには様々な要因が挙げられると思われるのだが、グローバル化、個人のネットワーク及び移動距離の広がり、都市部への人口の集中、それに伴う地方の過疎化、人口減少など影響の大きそうなものは多い。

これは流れなのだろう。

社会性の動物である限り、どうであれ、資本主義に行き着くであろうし、資本は集中する。

これらの影響により、相対的に資本の減少した地域の、文化的活動の意義や魅力が目減りしたのだと思われる。

都市部でも、文化は廃れているのではないかと、疑問を持たれる方もいるだろう。

それについても、地方、都市部関係なしに個人レベルでリソースの集中と減少が起きており、また、個人の属するコミュニティも多種多様、近く遠く、つまり住んでいる場所に関わらず自由自在であるので、やはりその地域ごとの集いというものは、マイナーにならざるを得ないのだと思われる。

個人が繋がる範囲が狭ければ、地域の繋がりの強さは維持されるのだろう。

コミュニティが小さければ、資本の過剰な集中に対して、革命やまたは崩壊、再分配など、破壊と創造、再生といったサイクルが生まれやすいのではなかろうか。

言ってしまえば、人が支配しているうちは良い。

今、人間を支配しているのは、ルールとシステムである。それも、複雑に絡まっていて分かりづらいように思う。

話が逸れすぎて、何処に向かっているのか分からなくなってしまった。

ともかく、狭い世界であるならば、そこでの繋がりおけるメリット、繋がらないデメリットは大きくなる。

よってそのような状況であれば、文化の衰退は人口の減少による影響が大きいのかも知れない。

最初の話に戻る。ここが最初かどうかもあやしいものだが、、。

社会の一員であるか否か、これは、公人であるか私人であるか、とも言い換えることも出来るのではないだろうか。

人間が2人いれば、そこにはパブリックスペースとなり、大なり小なり公人であろうとするはずである。

友達であろうと、家族、恋人であれである。

家の外であれば、なおのこと、個人における公人の比率は引き上げられる。

私も、小学生の前では赤信号を渡らない。

これは、モラルもあるが、個人が属する社会を守る行動でもある。

自分の属するコミュニティが荒れれば、回り回って自分の首を絞めるのは想像に難しくない。

地域の文化を学んだり継承すること、自分の町を好きになること、住んでいる人を好きになること、次世代に繋ぐこと。

これらはある意味、社会性の動物である人間の、本質的に望む感情ではなかろうか。

良い思い出や、感謝があれば自然と社会の一員でありたいと思ったり、意義を感じられるのかも知れません。

その意義が薄れている昨今の状況もまた、人間の本質的な行動によるものだと考えると、人間の内包する矛盾のようなものを感じる。

私、個人としては、例えば自分の子供に対してパパの背中を見せることで子供の成長を促すといったような気持ちであり、地域に対してあまり思い入れがあるとも言えないのだが、夜市であったり神輿であったり、神楽を招いたり、慰霊祭での太鼓などで、おばあちゃんや子供らの笑顔やお褒めのお言葉などを戴くと、良かったなという気持ちは湧いて来る。

人間はどうであれ、社会の中で多くの幸せを感じる生き物であるというのは、避けられようもない事実なのだと思う。

地域の文化を守りたいなんていう気持ちはないのだが、、

尊い自己犠牲は、回り回って幸せを運んで来てくれる、、か、どうかは分からないが、、

社会の一員だなんて思いたくはないが、、

社会性の動物である、さがなのだろうか?

面倒だと思っても、後悔はしたことはない。

また話は変わるが、現代を社会性の過渡期と考えてみる。

社会の一員として生を受けた私たちではあるが、あまりよい未来が見えなくなったとしよう。

なので、それぞれが探し始めた。

今までは、リーダーに舵を切ってもらい、その流れに沿えばよかったのかも知れない。

しかし、流れは無くなってしまった。
濁流や渦潮となった。

自分で考えて、進まなくてはいけなくなった。
人のことに関わっていられなくなった。

つまり、社会性が有用でなくなってきたのだ。

また、話が変わるが、文化というものは、その地域性の中から生まれたものだと思われる。

工業や産業が盛んであったり、人々の往来が多かったりと、その地域性から文化が生まれたものも多いのではなかろうか。

なので、その地域性や特色が失われた場合、当然ながら文化は廃れていくのだろう。

最後に、もう一度、最初に戻って話を閉じたいと思う。

これからの生き方を、選ばなくてはならないのだと思う。

社会の一員に重きを置くか、個人に重きを置くか。

社会の一員というものは、生きる術であった。

しかし、今は、必ずしもそうではなくなったということなのだろう。

ということで、一応の終わりにしたいと思う。

社会の一員とは、というテーマではあったのだが、途中途中で意味合いが変わったり、話が跳んだり跳ねたり、、。

現状、読み返してもないが、最後まで読まれる酔狂な方は少ないと思われるので、とりあえずこのまま完稿ということにしておく。

また、日を改めて読み返してみようと思う。

もし最後まで読まれた方がいらっしゃるならば、感謝である。

長文、失礼であった。

おやすみなさい。ありがとう。

       END










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