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『ピングー』を創った男たちの歴史(後編)オットマー・グットマンの訃報/オットマー・グットマン、甲藤征史の出会い

『ピングー』の生みの親である
オットマー・グットマン氏、
それを引き継いだ
甲藤征史氏の経歴について紹介しました。

『ピングー』はスイスのアニメなのに、
なぜ、日本人である甲藤氏が
引き継ぐことになったのでしょうか。

オットマー氏と甲藤氏は友人で、
彼が亡くなったことを甲藤氏は、
オットマー氏の奥様の手紙で
知ったそうです。

スイスで『ピングー』の
テレビシリーズが
はじまって4年目、
’93年のことでした。

手紙の1か月後、
甲藤氏はスイス人の
アニメーターと
ドイツでクレイアニメーションの
制作をしていました。

スイス人の同僚の元に、
スイスの代理店からの
一本の電話が入ります。

「オットマー氏が残した
『ピングー』の制作を
 引き継いでくれないか」
と打診されたのです。

彼は、喜んでこの仕事を
引き受けましたが、

作業の遅れを取り戻すためにも、
二人必要だということで、
スイス人の同僚は甲藤氏を誘いました。

甲藤氏は生前、
オットマー氏と友人だったので、
引き受けていいものか悩んだそうです。

オットマー氏は
『ピングー』を生み出す前から、

甲藤氏に
「機会があったら一緒に仕事をしよう」
と言うほどの仲でした。

そんなオットマー氏の
『ピングー』が世間に認められ、
これからさらに
大きくなっていく矢先に、

オットマー氏は
亡くなってしまったのです。

そのことを思うと、
甲藤氏は無下に断ることもできず、
制作に参加することになりました。

そもそも、
オットマー氏と甲藤氏の間柄は
どんな関係だったのでしょうか。


オットマー氏と甲藤氏の出会いは
『ピングー』が生まれるより
ずっと昔、
‘71年にまで遡ります。

当時、甲藤氏は
ドイツのテレビ局で
アニメーション制作に
携わっていたそうです。

アメリカで放送されていた
『セサミストリート』(‘69)が
大変な人気で、
ドイツでも放送されることになりました。

ドイツ版
『セサミストリート』の放送にあたり、
番組の尺に足りない部分を補うための
短いアニメを制作する必要があり、

甲藤氏はこの制作に携わっていたのです。

このアニメの部分に
手描きのアニメーションではなく、
クレイ人形を使ったシリーズの
企画が持ち込まれ、

その制作現場で
甲藤氏とオットマー氏が
はじめて顔を合わせました。

二人とも人形を動かす係で、
二つの撮影台に背中合わせになって
作業していたそうです。

オットマー氏と甲藤氏は
この仕事で意気投合し、

クレイ人形でいろんな動きを
表現するための
試行錯誤を繰り返しました。

甲藤氏はオットマー氏の手掛けた
『ピングー』を
このように言っています。

私は彼のピングーのフィルムを見るたびに、
当時のことを思い浮かべます。
この頃の体験や試みがピングーのフィルムの
各所に引き継がれているからです。

『Enjoy! Pingu(エンジョイ ピングー)』2020/光文社

この仕事が終わった後も、
オットマー氏と甲藤氏は
一緒に仕事をしたり、

甲藤氏がオットマー氏の
スタジオに訪れたり、
という関係が続きました。

こんな経緯を経て、
オットマー氏の逝去に際し、
甲藤氏が『ピングー』の制作を
引き継ぐに至ったわけです。

私は『ピングー展』を訪れ、
パンフレットを読むまで、
こんな話はまったく知りませんでしたが、

あまりにも素敵な話だったので、
ここに記事として書いてみました。

この記事に書いたことの多くは、
同展示会のパンフレット
『Enjoy! Pingu(エンジョイピングー)』の
巻末にある甲藤氏の
エッセイをもとにしています。

丸写しになってしまわないように、
自分なりの書き方で、
情報を付け足したりもしました。

ここに書いたこと以外にも、
エッセイには
『ピングー』の制作を
引き継いでからの苦労話、

制作が終わってからずっと後に
スタジオがあった場所を
訪れた時の話など、
興味深い話が満載です。
(読んでいて涙ぐむほど感動してしまった)

当たり前の話ですが、
やっぱり甲藤氏本人が書いたものは
説得力が違いますから、

ぜひ、現物を手に取って
読んでいただきたいですね。

なお、このパンフレット巻末のエッセイは、
甲藤氏が‘02年に自費出版した
『懐かしいピングー』という本を
加筆・修正したものだそうで、

機会があれば、
そちらもぜひ読んでみたいものです。

【参考文献】
『Enjoy! Pingu(エンジョイ ピングー)』
2020/光文社

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