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『ピングー』を創った男たちの歴史(前編)生みの親、オットマー・グットマン、引き継いだ甲藤征史

昨日紹介した
『ピングー展』に行って、
はじめて知ったことだったのですが、

『ピングー』の生みの親である
オットマー・グットマン氏は、
‘93年に56歳の若さで
お亡くなりになったそうです。

オットマー氏は‘37年にドイツで生まれ、
その後の詳しい経歴はわかりませんが、
スイスに移住し、映像作家になりました。

‘80年に『ピングー』の原型となる
クレイアニメーション
『Hugo』を手掛け、

‘82年にはスイスの自宅に
スタジオを構えています。

そのスタジオはアルプス山脈が
背後にそびえる
ハウゼンという地域の村にありました。

二階建ての建物の1階がスタジオで、
準備室、撮影所、倉庫の3部屋に区切られ、
2階が住居だったそうです。

立体物の撮影時には
カメラを固定できる脚に乗せて撮影します。

しかし、カメラの電源ケーブルが
床にあると、
作業の邪魔になるので、

このスタジオでは、
天井にレールを付け、
そこにカメラを設置し、
撮影していたそうです。

オットマー氏が
独自に発注した特注品でした。

‘86年には『ピングー』のパイロット版である
『南極からやってきたピングー』を手掛け、

この作品を
ベルリン・フィルム・フェスティバルに
出展し、入賞を果たしています。

‘90年にはスイスで
『ピングー』のテレビ放送が
はじまりました。

たちまち国内では人気を博し、
翌年の‘91年には
第2シリーズの放送がはじまります。

テレビ放送での好評を受け、
‘93年にはスタジオを
大きくするために

制作拠点をルシコンに移したのですが、
これからという時にオットマー氏が
お亡くなりになったのです。

さらに驚くべきは、
この『ピングー』シリーズの
制作を引き継いだのが、
日本人だったという話です。

オットマー氏の遺志を引き継いで、
『ピングー』の制作に携わったのは、
甲藤征史(かっとうせいし)氏です。

甲藤氏は、 ‘38年生まれで、
オットマー氏と
同世代のクリエーターでした。

彼は学生時代から
地元の新聞に4コママンガを
連載するほどの
才能の持ち主だったようです。

大学時代にアニメーション
制作会社である
おとぎプロダクションから
声を掛けられ、

同社に入社、
アニメーターとしての
キャリアをスタートしました。

(おとぎプロダクション:
 日本初のテレビアニメシリーズ
 『インスタントヒストリー』(‘61~’62)や
 日本初のテレビCM(精工舎)を
 制作したことで知られる)

同プロダクション退社後は、
スタジオ・ゼロに所属し、
『オバケのQ太郎』や
『パーマン』の制作に携わります。

(スタジオ・ゼロ:
 鈴木伸一(元・おとぎプロダクション)、
 石ノ森章太郎、つのだじろう、
 藤子不二雄など、
 ときわ荘出身のマンガ家たちが設立した
 アニメーション制作会社)

その後、甲藤氏は
‘69年にドイツに移住し、
ドイツ、スイス、チェコなどで
コミックやアニメーションの制作に
携わっていたようです。

【参考文献】
『Enjoy! Pingu(エンジョイ ピングー)』
2020/光文社
『アニメーション学入門』
津堅信之/2005/平凡社
横山隆一まんが館「高知県出身のまんが家」

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