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坂本龍一が「売れるポップス」に苦悩した時代(1)娘・美雨と小室哲哉

前々回、前回と
『コンテンツの秘密』に掲載されていた

「コンテンツのわかりやすさ」
という記事の中から、

音楽事務所・ビーイングの
ヒットの秘密、
ドワンゴの着メロのヒットの理由
を紹介しました。

本書によれば、
どちらも大衆にとって
「わかりやすかった」のが、
ヒットした要因だということです。

音楽における「わかりやすさ」は、
煎じ詰めれば、
「音量」「聞き取りやすさ」
ということでした。

一方で、この記事を読んでいる時に、
私が共感していたのは、

どちらかというと、
ドワンゴの着メロを作成した
音大生の耳の感度の方でした。

ビーイングのことを紹介したので、
誤解されたかもしれませんが、

ビーイング系のアーティストは、
私が普段、好んで聴くようなタイプの
音楽ではありません。
(注・嫌いなわけでもない)

別に、私は音楽を専門的に
勉強したわけではありませんが、
どうも私の耳は感度が高いように思います。

音楽を聴く時に、注意を払うのは、
全体のバランスだったり、
歌のある楽曲でも
伴奏の方に集中しがちです。

そういう耳で、
一般の人たちに好まれる
J-POP の音源を聴くと、

どうも耳に合わない、
居心地の悪さを感じます。
(妙に音がクリアーで、うるさい感じがする)

そういうこともあって、

私は周りの人たちが
バンドやアイドルに熱狂していた
中学時代は CD を買ってまで
音楽を聴く習慣が
ほとんどありませんでした。

私が音楽に夢中になり始めたのは、
高校時代の終わりでした。

その時点で、20年以上も前の音楽だった
YMO に導かれ、
テクノを中心に聴くようになりました。

どうも YMO をはじめとする、
テクノ系のアーティストの音源が
私の耳には合ったのです。

そんな私がビーイングや
ドワンゴの着メロの話を読んで、
思い出したのが、

'90年代の坂本龍一の苦悩です。

ビーイング系や
小室ファミリーが全盛期だった
'90年代の日本の音楽シーンで、

坂本龍一は「売れるポップス」を
生み出すために苦悩していました。

なぜ、この頃の坂本が
「ポップス」にこだわっていたのか、

長らく疑問に思っていたのですが、

おそらく坂本が
「売れるポップス」を作ろうとしていたのは、
娘の坂本美雨の影響ではないか
と推察しました。
(このことに気づいたのは
 割と最近の話)

その昔、小室哲哉が
深夜に音楽番組をやっていて、
その番組に坂本龍一が
ゲスト出演したことがあったのです。

私は実際に
その番組を観たわけではなく、

ネット上にその時の放送の内容が
書き起こされた記事があり、
それを読みました。

それによると、
坂本の娘・美雨は、
小室哲哉の大ファンだったそうなのです。
(後に美雨は小室とも共演)

(フジテレビ公式サイト『TK MUSIC CLAMP』
 坂本龍一出演回のテキスト書き起こし
 1995.5.31. 放送)

この番組の中で、
坂本は娘の美雨から
「勉強しなさい」と言われ、

小室哲哉のインタビューが掲載された
音楽雑誌などを渡されていた
というエピソードも語られていました。

この記事を読んだ時に、
私ははじめて’90年代の坂本が
「ポップス」に走った理由がわかったのです。

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