よしだけいご
よしだやの日常、生活から経営するにあたってのよしよしの葛藤、住人の成長記録まで。 あったかくてやさしいセカイの断片を覗いてください
よしだけいごしか表現出来ない、俺だけのコトバたち。
ぼくたちは表現者。 ふたつとして同じ物語がない「生」を 感情をいっぱい動かして表現している。 悲しかったこと。うれしかったこと。 腹が立ったこと。しあわせだったこと。 その物事をどれだけ繊細に、どれだけ丁寧に感じ取れるかが、豊かな「生」を創るんじゃないかな。 情報でありふれているこの時代。 次々とインプットされていくものを取捨選択している中で、いつの間にか感性までも蔑ろに仕分けしてしまっている気がする。 感性を処理するには時間がかかる。 その感情を噛み締めて、息を呑む
【はじめに】 この3年間よしだやを通して、とんでもなくたくさんのご縁とこの歳ではなかなかしたくてもできない経験をいっぱい頂いた。 よしだやは毎日たくさんの人達で溢れて、ステキな空間でいろんな話をしている。 想いで回っていて、どんな人でも受け入れられて、やさしいやり取りで成り立っている場所。 自分でもホンマにステキな場所だと胸を張って言える。 でもね、対面した時やSNSから見える部分はそれらのいい所だけ。 その裏側には同等、いやそれ以上の失敗、挫折、苦悩がいっぱいあっ
「そんなことは無理だよ。」 「どーせやったって意味ないよ。」 たくさん鼻で笑われてきた。 たくさん批判されてきた。 老人はいいよなあ。 地位があって、偉そうにしてるだけでいっぱいお金が貰えるシステムで。 政治も、社会の仕組みもお年寄りに優遇するばかり。でも俺たちもその仕組みを作ってる一員であることにちょっとだけ皮肉を感じる。 「どーせ変わんないよ。」 「何言ったって一緒だよ。」 若者の間では諦めたような言葉が蔓延るようになった。 助けて貰うんじゃなく、期待するんじゃ
子供の頃から、人が好きだった。 小さい時は公園で幼なじみが遊んでる姿を眺めてるだけで 「今日は○○君と遊んで楽しかった」 っていうくらい優しさと思いやりで溢れていた。 誰かが感情を豊かに表現しているのがすき。 誰かが新しい感情に出会うのがすき。 その瞬間を作れるのが僕の幸せだった。 じゃあ、僕はどうなの? 普段からみんなが楽しめるように気を配らせ、1人になっている人に寄り添ったり、向き合ったり。人前で涙を見せたことないし、ましてやステージに立つこともあまりない人生やっ
モラトリアム。 子供から大人へ移り変わる時、社会に出て一人前の人間になるまでの『 猶予期間』のこと。 2001年生まれ。同世代が大学を卒業し、社会に出ていく頃。 僕たちは今、 "自分とは何者か" "どう生きていきたいか"を考える猶予期間の最終地点にいる。 正直、今の社会は僕たちに対して厳しすぎる。 義務教育では個性を握りつぶされ、SNSでは誰か炎上しないかと常に監視されている。 多額の奨学金を背負わされ、可処分所得が年々減っていく中返ってくる見込みのない年金を払わされる。
みんな知ってる? 「木漏れ日」ってことば、他の言語ではひとことで表せられる単語や表記がないらしいよ。 7月。青く高い空に入道雲が綺麗なコントラストを描く頃。 「木漏れ日」と聞くと、汗とスポーツドリンクの匂いが混じる本気で部活に打ち込んだ3年間が浮かび上がる。 秋の夕暮れ。燃えるように赤い夕日が地平線に沈む頃。 「木漏れ日」と聞くと、あの頃ちょっと気があった女の子を自転車の後ろに乗せて寄り道した淡くて酸っぱい思い出がよみがえる。 「木漏れ日」って単語の中には、青春とコント
朝、いつものように目覚めること。あったかいご飯がだいすきな人と食べられること。笑顔が自然と溢れること。 今日という日を、生きること。 自分自身や大切な人たちのそんな"当たり前"が犯されそうになった時、そいつは現れる。 手の震えが止まらなくなり、動悸が激しくなる。 次第に呼吸が出来なくなって、息が詰まる。 一般的な呼び方では「パニック障害」って言うらしいそいつは、いつも突然やってくる。 この世に命を授かって22年。まだ死んだことはないけれど、この時に限り僕は擬似的に「死」
ぶくぶくぶく。 夢を、見ていた。 きれいなきれいな夢だった。 あの日の桜の木の下で。 あんなに華やかだったのに。 変わったのは自分かな。 変わらなかったあなたかな。 穏やかに桜が散っていた。 ぶくぶくぶく。 あの時言ってたよね。 「出会いがあれば終わりがある」って。 その時その時の人生がパッと色付くみたいで。 毎年咲いて散る桜のようなかんじ。 いつか来る終わりを嘆くよりも 今の鮮やかな世界を楽しもうよ。ってね。 でもね。実は話に続きがある。 「永遠を信じなきゃどうす
この世には2種類の人間がいる。 夜行バスで寝れるタイプか、そうでないか。 隣の人はヘッドホンにアイマスクで爆睡してるが、自分は未だに暗い車内でひとりだけ、スマホの明かりをこれでもかと撒き散らしている。 でもね。俺は寝れないこの感じ、好きよ。 意外と夜行バスって朝早く着くよね。6時とか。着いたところのお店はどこも空いてないけど。 でもさ、今これを夜中2時に書いてるねんけど、あと4時間で目的地に着くって考えたら早くない?? 「○○しないといけない!」ってほど焦らない時間やし
隣でスヤスヤと眠るあなた。 笑いあって、語り合って、抱き合って。 こんな時間が永遠に続けばいいのにと思う。 だけど人間。生きてる以上は別れがあって終わりもある。 ああいつか、彼女の記憶から俺がいなくなるのかもな。 そう思いながら腕枕の重さのようなずーんとしたものが心にのしかかってきて、無性に寂しくなった。 でも、その"いつか"は今日じゃない。 その幸せを胸に刻みながら、彼女の寝顔を微笑ましく眺める。 終わりがあると知りながら。 別れが来ると知りながら。 今出逢
神頼み。他人任せ。 自分じゃ解決出来ないことを誰かに助けを求めることを言うんやろうけど、正直俺はそんな不確定要素に身を委ねるのが怖い。 何よりそんな重荷を頼まれた神の気持ちを考えると、とてもじゃないけど頼めないよね。 10月はそんな1ヶ月だった。 他人の重荷を自分が知らず知らず抱えていて、いつの間にか身動きが取れなくなっていた。次第に自分のやりたいことも見えなくなって、あれ、俺なんで生きてるんやろう。ってすごく悲しい気持ちでいっぱいになってた。 神はいない。 神頼みも
他人の頭の整理は上手く向き合えるのに、自分のことになるとぜんぜんわからない。 頭の中が、こんがらがって、絡まって、ひとつほどけたと思ったら2つ結び目が出来て。 今日はそんなぐるぐるな頭の中を頭の整理がてら書いてみようと思う。 頼るって、なんだろう。 自分の心の奥をさらけ出すこと?大切にしている世界観を共有すること?それを強要すること? でもその人にもそれぞれの価値観、世界観があって、それを押し付けるのはなんかいやだ。 たぶん、「悩み相談」にすごく怖いって感情が付きまとって
1年ぶりに会うともだち。 あの頃から変わったね。 あの頃から変わらないね。 これからどうする? 今の悩みはねー。 そんなことよりさ、あの映画見た? そんな話は日付を超える手前まで盛り上がった。 「今日は早く帰るね。」 体調を崩しててしんどそうにしている彼女に家を出る前そう言ったはずなのに。 12時を少し超えて冷えきった手を同じ布団で温めながら、俺はちょっぴりぐるぐるしてた。 もちろん、彼女のことも大切。そばにいたいなあ見守ってたいなあって。心から思う。 でも、友達との
「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず」とは、すべての人は平等であり、生まれながらにして上下の区別はないという意味。 でもこれは暮らしぶりの平等ではなく、権利が平等にあるだけで、お金持ちの人も貧しい人もいるよねえって。そこで勧めるのがこれ!学問! 勉強すれば賢くなって、賢くなったら賢い人しかできない職業につけて、収入上がって豊かになるよね! みたいなのが学問のすゝめの始まりです。 福沢諭吉さん適当に要約してごめんなさい。 でも最近、「幸せとはなにか」の定義が変わりつつあ
夏の鋭さが過ぎ去り、冬の鋭さが攻めてくる前の穏やかな晴れの昼下がり。 京都。紅葉。鴨川。緩やかな日差し。 秋の素晴らしさが全て無料配布されているこの場所から、一旦立ち止まって自分の人生の道を振り返ってみることにする。 これを定期的にしないと自分の現在地が分からなくなっちゃうから。自分の目指したいところはこの方向で合ってるのかなあって確認するための自己満noteです。興味のある方だけどうぞ。 10月は長い長い鬱とその打開策を見つけそうになった月。 何故か涙が流れたり、パニック
昨日、俺の大切な人が海外から帰ってきた。 たった2ヶ月やったけど、お互いにはすっごく長くて濃すぎる2ヶ月を離れて過ごした。 バスを降りて荷物をやり取りしてる後ろ姿を見た瞬間、コトバにならない色んな想いがいっぱい溢れ出した。無性に涙が出てきた。 お互い話したいこと、聞きたいことは山ほどある。旅のこと、ハプニングのこと。 どんな風に2ヶ月過ごしてきたかを話したいし、聞きたかった。多分相手も同じ感情で、いっぱいいっぱい話したい。 でも、無言の時間が続いた。 久しぶりで緊張して