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わたしの名前は、テランヴァーグ皆川。

【たくましい植物が自らの意思で群生しているこれらのテラン・ヴァーグ(放棄された土地)は、世界で最も有名な景勝地の多くよりも、より本物らしく生き生きとし、より確かなものなのかもしれない。そういう意味で、独自の魅力と価値を魅せている。】

人間がいなくなった後の自然/カル・フリン/草思社

昨日出会ったこの文章が異様に胸に残って、何度も何度も同じところを繰り返して読んだ。
テラン・ヴァーグ。ためしにちょっと声に出してみたり、頭の中でその景色をぼんやり夢想してみたりしてみる。その言葉に込められた意味も含めて、何度も噛み締めてみる。なんて味わい深い言葉だ。

この文章に出会う前から、この一冊がページをめくるたびにみせてくれる情景にはなんともいえない高揚感を感じていた。
人間がいなくなった後の自然、そのタイトルの響きからは我が家の近くにもあるような鬱蒼とした廃墟群、もしくは、どこかデストピア的な退廃的な世界観を想像していたけれど
ページから飛び出してくるのは、とにかく自然の営みのたくましさ、生命力。
人間がいなくなった理由は、戦争、放射能汚染、産業衰退など人間中心主義的なものが多いのだが、それを糾弾するようなものではないところが個人的には心地が良い。あくまでも人間がその土地を放棄したあとの自然の回復と新生にスポットライトを当てている語り口で、たんたんとしながらも自然への畏敬の念と愛情のこもった文章だ。
まだページ半ばなので本についてはこの辺りにするとして、とにかくわたしはこの「テラン・ヴァーグ」という言葉に出会った。そして「そうだ、これを名前にしよう!」となり、いそいそとノートのプロフィール欄を変更したのである。

「人間がいなくなった後の自然」の中では、「放棄された土地」と注釈されているテラン・ヴァーグという言葉。
自分のことを「放棄された土地」と呼ぶのが異様に胸にしっくりとなじんでいるなんて、なんだかなぁという気もするけれど
一度は人間が放棄した土地に鳥が種子を運ぶ。風に乗って種子が着座する。そしてあたらしい生命が息吹き、育まれていく。小さな世界がまたはじまっていく。今までよりもさらに濃い、圧倒的な生命力をもって。
そんな放棄された土地のあたらしいはじまりに、わたしという人生を重ねて、夢を見てしまったのだ。

多分、自分が思っているよりもずっと、わたしは両親に対して「放棄された」という気持ちを抱え込んでいるようだ。
あんなことも、こんなこともあったけど、しょうがないよねぇ、なんて笑い話にしたりしているけれど
わたしはきっとおなかの底でずっと傷ついている。傷ついているし、寂しくて、心細くて、むなしくて、仕方がない。だからやたらリアルな実家の夢ばっかり見るのだろう。ちくしょう。
おなかの底や夢見はそうでも、生きてるんだからなんとかやってかにゃならんし、なんとかやるにしても、出来ることなら健全で、健康でいたい。

だから、この「放棄された土地」に、いや、「放棄された土地」だからこそ
今までにないような濃密な生態系が形成されたり、わたしたちの想像や知識をはるかにこえるような自然の営みが栄えていく様子が、画面を飛び越えて輝いて見えたのだ。
わたしも、こうありたい。久しぶりに感じた、強烈な願望。人生への強烈な決意のようなもの。

皆川テランヴァーグにするか、テランヴァーグ皆川にするか、とっても悩んだけれど
なんとなく文字にしたときの並びがテランヴァーグ皆川のほうが好みだったのでこちらにした。
自分に名前を付けるのは、多分高校生の時に同人小説を書き始めたときにペンネームをつけたのが最初だった気がするけれど
以後、なにかにつけて自分に名前をつけるときは、いつも苗字は「皆川」をつけている。本名とは縁もゆかりもないのだが、さすがに20年以上の付き合いとなると愛着がわいている。
長い付き合いにしようね、テランヴァーグ皆川。
きっとここから、わたしたちの濃密な生態系を育んで、豊かな土地にしようね、などと自分で自分に語り掛けている。
というわけで今日からテランヴァーグ皆川です、よろしくお願いします。

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