忘却について。

ほんとに最近のこと、わたしは本が読めるようになった。今まで長文を読むのが苦痛で、教科書を読んでもまるで頭に入らなくて、ほんとにレポートを仕上げるのが大変で大変で仕方なかった。小説も、半ページ読むのが精一杯で、指でなぞりながら、言葉を一つ一つ拾い上げて、咀嚼しながらじゃないと意味が理解できなかった。それが、急に30ページくらい続けて読めるようになったのだ。わたしは、嬉しかった。本は好きだったし、記憶の端で、読んでみたい本は山積みになっていたから、それを消化出来ると思うと、わくわくが止まらなかった。

それなのに。

忘れるのがこわい。

自惚れなのだが、わたしは自分の辛い時に書く文章が好きだ。知人が言ってくれた言葉なのだが、

極限までズームアップしてスーパースローで再生してるみたいに、繊細なところまでグロテスクなほど細かく表現してるくせに、読むと高速道路に放り出されたみたいなドチャクソ感

Twitterから引用

とお褒めの言葉を頂いた。
わたしはこの"言葉の癖"が無くなるのが怖い。

わたしは、アイデンティティの喪失を怖がっている。
"病み"がわたしを占めている割合はとても大きい。"病み"が無くなるとわたしはわたしであるという認識が揺らいでしまうと思った。病まなくなったら、ネガティブじゃなくなったら、わたしがわたしじゃなくなってしまうんじゃないか。変わったわたしをみんなは受け入れてくれないんじゃないか。(もっと言うならわたしがわたしだってこと、みんなは気づかないかもしれない!)
"病み"はとってもとっても大切で、"病み"が居なくなってしまうんじゃないか、とても不安に思う。あんなに苦しめられてきたはずなのに、それがわたしのアイデンティティになっているって思って離せられない。名残惜しくて寂しくて悲しくて虚しいふくざつな感情を抱く。なんで、なんでいなくなっちゃうのって思う。

薄れたくない、とってもとってもかなしい、この気持ちは絶対忘れたくない。だからわたしはnoteを書いた。

忘れたものはどこへゆくのだろう。わたしは【影の世界】へ行くのだと思う。忘れなかった世界の裏に忘れられた世界が出来るのだと思うのだ。でも死ぬと世界がひとつになって全てが認識出来るようになるのだと思う。

忘れたものも、失ったものも、全部、全部あの世界にはあるのよね、?大丈夫だよね、?消えてなくならないよね、?

この不安があるうちはまだ、残ってる。不安さえもなくなってしまったら、すべてを忘れてしまうのだと思うわ。でも、「わすれないで、うすれないで」って泣いていた今までのわたしとは違う。また、ここに戻ってこられる日を信じようと思う。

流れに身を任せて、定まらない、生命体で居ようと思う。加速しすぎるのは良くない。たまに、ゆるやかになろう。

忘れるまでの間、沢山、沢山、書き連ねて仮に忘れちゃっても思い出せるように鮮明に鮮明に書こう。早く、確実に。

(新たなはくとななと)


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