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アラフィフになってから発達障害ADHDと診断された私ですが、コミュニケーションに関しては、小さいころASD傾向が強い子でした。自分の興味のある話しかできないし、女子特有の気遣いができない。

女子のコミュニケーションを理解できないし、楽しめないし、怒らせた理由がよくわからず「怖い」と思っていました。

という話を、先日、All Aboutのコラムに書きました。私は、コミュニケーションに関しては、ASD(自閉症スペクトラム)傾向が強く、女子トークには難儀しました。

詳細は、上記コラムをご覧いただきたいのですが、要するに、暗黙のルールや、人の噂話やらアイドルの話が、私には「どうでもいいこと」だったので、理解することも話を合わせることもできないのでストレスだったのです。

このASD(自閉症スペクトラム)の特性について、よく「合理性」で判断するとよく言われます。「合理的な思考の持ち主」についてのフレーミングに、私はどうしても、微妙な違和感を覚えるのです。

いわゆる典型的な女子トークについて「私にとってはムダな時間」ですが、彼女たちにとって「ムダではない」ことはよくわかっているのです。だって楽しそうですもんね。

なにがそんなに楽しいのか。一生懸命、女子の遊びの輪に混じっては、「やっぱり楽しくないな」と繰り返していました。かなりチャレンジしてみました。でも、私は、ドッヂボールしたり、ケードロしたりするほうがずっと楽しかった。わからないものはわからない。

そして、彼女たちにとっては、おそらくムダに見えるような、私にとっての「よくわからん時間」というものが存在していました。

・電車のホームを見下ろせる駅で電車が入ってきたり出ていったりするのをずっと見続ける

・インターチェンジが見下ろせる高いビルから延々と車が行き交い交差するのを見続ける(ベビーの頃からコンクリートミキサー車が特に好き)

・土手に寝転んでずっと空を眺めて雲の形が変わるのを見続ける

・「なんで?」「どうして?」と気になったことをとことん調べる

・学校の帰りには「今日は柵の上を落ちないように歩く」「今日はずっとこのリズムで歩く」と決めごとをして一人でそれを守る遊びをしながら帰る

あぁ、書けば書くほど、やっぱり自閉傾向だなとわかります。だから今、保育士をする時も、自閉傾向の子とすぐに仲よくなれるのか。

そういえば「小学校の掃除の時間に溝掃除に夢中になり過ぎて我を忘れ、5時間目に入っていることに気づかず、通りがかった先生に『授業始まってるぞ!』と叱られるほどの過集中ぶりを発揮したこともあったなぁ。

20代になってからも「ストレスが溜まった時にはみんなでしゃべって発散する」という多くの女子の気持ちはわからないけれど、私はいつもバイクで須磨海岸まで走り、イルカショーを見て、砂浜で昼寝したら、翌日また動けるぐらい元気になると知っていたし。でも、それは多くの女子には共感してもらえないこと。むしろ、「ひとりでバイク乗って、海でひとりで昼寝して何が楽しいの?」と思うでしょう? ムダなことに思えるでしょう?

それぞれの人に価値がある。それが違うだけ。

ゆえに、すべてをムダだと思っているのとは違うんですよね。あくまでも私の場合の話で、HSS型HSPでもあるから、例外的なのかもしれませんが。

立ち位置変われば物事の見え方は変わる

合理的な思考があると、まるで感情がないように思われてしまうこともあります。実際に、小学校の時にも「怖い」と言われたエピソードを話しましょう。

小学5年生の時の話です。クラスの男子が5〜6人で、大きな段ボールに一人が入ってみんなでそれを転がして、アトラクションみたいなことをして楽しんでいました。きゃーきゃー盛り上がっていました。悪ふざけであり、いじめではなく仲良し集団のやっていたことでした。

ところがそのなかの一人、ナカムラくんが救急車で運ばれる事態に。脳しんとうを起こしてしまったのです。すると、クラスのほとんどが泣いてしまいました。後日、私とマコちゃんのことを「あいつらだけが泣いていなかった」と他のクラスに悪口を言いふらされました。

「あいつらには感情ないねんで」
「ナカムラのことをなんとも思ってないんやで」
なんか、えらく冷たい人になってしまっています(汗)。

私たちはなぜ、泣かなかったのか。

マコちゃんは「要らない子だ」「あんたを産まなければよかった」と母親から罵られてきた子でした。元いじめっこです。私も4年生の時に、部活でめちゃくちゃ無視され意地悪されまくりましたが、彼女のその「いじめオーラ」の裏メッセージ「私に構って」に気づいたので、根気よく流して流して、ついに仲良くなったのでした。

そんな心に傷を負った友人マコちゃんは、冷めた視点を持っていても当然です。

そして、私自身はというと、みんながあまりに泣くので「ここで私がしっかりしなければ」と内心思っていたのです。

そんな理由で私たち仲良し二人組は、クラスのみんなが一斉に泣きまくるのを、正直、驚きとともに客観視していただけでした。決して「悲しくない」わけではないのです。

それぞれに視座がある。
それぞれに理由がある。
それだけだと思います。

もしそこに合理的な理由があるのだとしたら、確かに、私たちは「泣いてもなにも変わらない」とは思っていたかもしれません。「それよりもここでしっかりして、先生からなにか連絡があれば、次に、どう動けばいいのか考えておかなければ」とは、考えていました。

そう思うのには、私とマコちゃんが常に女子で1〜2番の成績であったこともあり、先生によく私たち二人が頼られていたというのもあると思います。実際、私はそのクラスの終わった春休みに担任に指名され、4月の校長先生の退任式の時、6年生代表で挨拶文を読み上げたほどの信頼関係がありました。

同意できて当然。
言わなくても察して当たり前。

それを「当たり前」「常識」としている人たちの視座から見ると、ASD傾向というのは確かに「感情がない」「冷たい」ように見えるのかもしれません。

でも、ASD傾向の人も

・すべてがムダだと思っているわけではない
・合理的思考の持ち主にもムダやアソビはある
・自閉傾向の興味や関心があまり一般的ではなく「共感」を求めていない

……ではないかと思うのです。そもそも、感情もあるし自分が嫌われたら傷つきます。それを、当事者以外の人にもっと知ってもらいたい。そんなことを、最近、思っています。

変わり者だとか、感情がないとか、決めつけるのではなく、「この人の世界があるのだろうな」って想像してもらえたなら、本当は「自閉」ではなく、マイワールドくん、マイワールドちゃんなんだと思ってもらえるのではないでしょうか。

……そんなふうに思うのは、プロの方から見ると素人考えなのかもしれませんが、当事者として、そして、心理学をちらりと学ぶ者として、記しておきたいと思います。

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