見出し画像

みんながいうところのアカシックレコードが、どうやらユングのいう宇宙の法則で、私の知ってる「大いなる存在」「宇宙」と同じものを指すらしいと知ったので、少し話をしてみることにした。

昨年、友人から言われたことで違和感があるなぁと思った言葉がある。

・この世に生まれてきたときにすべて忘れている
・いま思い出したんやね「おかえり」
・頭の中だけじゃなくて体感として思い出さないと

うーん、なんか違う。
なんか違うんよ。

彼女がそう思いたいならそれでいい。私は、彼女のことは好きだし、彼女を否定する気もない。

でも、違うの。

私は、最初から魂が半分、今生で目が覚めた状態で生きてきてるから。それで、ちょっと書いてみようと思う。そういう生まれ方をしている人が1000人に一人でもいるかもしれない。

これは、そういう人もいるんだよと書くだけで、だから自分がすごいって話ではない。でも、「みんな同じ」って言いたい人が多いので、見てる景色が違うってことは伝えたい。同じである必要はないのだから。

私は「すべての人に、役割がある」と思っていて、役割のために「今生でのスペックが設定されている」と思っているのです。

みんなでひとつ

さて。

私が幼少期から知っていた「宇宙の経典」みたいなものについて、代表的なものを3つ書いてみようと思う。

小さいころにテレビのCMで「人類みな兄弟」という言葉が流れたとき、「うんうん、そうそう」と泣きそうになった記憶がある。

みんなでひとつ

そう。
みんなひとつ。
なおかつ
みんな違う。

みんなひとつ=みんな同じ
という誤解をすると、話がややこしくなる。

「人の上に人をつくらず 人の下に人をつくらず」という福沢諭吉の言葉を学ぶ前から、私は知っていた。みんなが一つであること。人は平等であること。損得勘定がなくても繋がれること。だから、男女差別や、人種差別を敏感に感じ取る子どもだった。

優しくしてもらったから優しくするのではない。

知らない人にも、関係の浅い人にも、極論をいえば、自分に害を与えた人にも、優しくできるのならすればいい。

このことは、物心ついたときには、自分の心の根っこにあることを知っていました。

だから、めちゃくちゃオープンハート。
だれとでも話せる。
極度の人見知りのくせに
無限に繋がれる。

チャクラでいうと「第4チャクラ」がおそらく最初から開いている。

ちょっとしたことで泣くし、ちょっとしたことで感動する。本当にちょっとしたことで泣いてしまうほど繊細だった。

知らない人にすぐ話しかけられるし、その代わり、「こいつは仕返ししないだろう」と思われて、意地悪もされた。これもオープンハートな子の特徴。


すべてモノの見方次第である

別の角度から見れば、物事の捉え方が違う。ということを、だれに教えてもらうのでもなく実は、知っていた。

だからとことん考えた。嫌な目に遭うたびにいつも考えた。

「なにか理由があるのだ」と。

理不尽なことを親から言われたとき。
友達から裏切られたとき。
その理由について、いわゆる「共感」をした。

ここで、「共感」と「同感」の違いについて解説しておきます。

よく混同して使用している人がいるけど
「うんうん、そうだね」
「わかるわかる」
これは、「同感」。

「この人の目から見たら
 そう感じるのだろうな」
「この人の立場で考えると
 そう言わないと仕方ないのだろうな」
これが、「共感」。

小学生のとき、いつもすぐに私の顔を見ると叩いてくるヤマナカ君という男子がいた。

ちょっとやんちゃな格好をしていた(プレ不良って感じ)が、私は彼が叩いてくるたび「なにがしたいん?」と言った。

「ねぇ、なにがしたいん?」
「話しかけたいんだったら叩かんといてくれる?」
(当時がんばって大阪弁で話していた)

すると、ヤマナカ君は叩かなくなった。その代わり「おい!」と呼んだり、私のメガネをからかった。

「あのね。このメガネ、フランス製なんだけど」と言い返すと、ヤマナカ君は「おい、フランス製メガネ!」とからかうようになった。思わず笑ってしまった。叩くよりはずっといい。たわいもない話をするようになった。

「なんだ、彼は仲良くする方法を知らなかったんだな」と思った。

私の小学校の卒業時のサイン帳(寄せ書きみたいなノートね)には、ヤマナカ君から「中学校へ行ってもフランス製メガネでがんばれよ!」と書いてある。そんな感じで、ずっと無視していた加害者女子とも仲良くなった経験がある。理不尽な行為に突然立ち向かうときの私は、特攻隊のようだと自分でも思う。どうにでもなれ!と勇気を振り絞る。

自己対峙せよ自分に嘘をつくなかれ

そう。3つ目は自己対峙。
自分に嘘をついているのが異常にしんどい子だった。だからバレなくても謝る。友達のおもちゃを壊してしまったとき謝れなくて、そのまま家にかえったことがある。その後、めちゃくちゃしんどくなった。お腹を壊した。数日後、友達に謝りにいった。

以来、先に自分から謝るということを心がけている。

「自分の非を認める」のが本当に苦手な人が意外に多い。私自身、謝罪を避けようとする母親に育てられたが、「自分の非を認めようとしない人」が不思議でならなかった。

「おかーさーん。今日、ヤマシタ君と喧嘩して黒板消しで叩き合いした」

聞かれていないのに母に伝えた。母は「どうして自分に不利なことを平気で言うのかしら。この子は」と言った。

「自分の非を認める潔さ」を、私は幼少期から知っている。ラクだ。私が反抗して謝らなったのは「理不尽だと感じた時」のみ。自分が悪いと思ったら、ほとんど全部、時期がずれても謝罪してきた。

自分がしてしまった罪について、ほとんど経験の輪を閉じている。なんてすっきり(笑)。この「経験の輪を閉じる」についてもまた別記事で書いてみたいと思う。

私が生まれてきたときに忘れていたのは、むしろ「自己防衛」の術である。

みんながなぜ黙るのか。その自己防衛のために、人は嘘をつくのだということを、私は忘れて生まれてきた。ゆえに、その後の人生がたくさん、裏切りに遭って思い出していくのである。

以上、私が生まれたときから知っていたこと。ほかにも小学生の間に、「知っていると気づいたこと」がたくさんある。

例えば
「心を無にするということができればよいのに」
「悔い改めなければ同じことが繰り返される」
といった法則。このことについてはまた別の記事で。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?