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人生はRPGゲームだとして、それじゃ、どんなことを攻略するの?

以前の記事で「人生は気づきのRPGゲーム」だと書きました。では、どこを目指し、なんのために、どんなことを攻略するのでしょうか。私の考えですが、お話しします。

ゲームの目的は?

それぞれの「精神的成長」のため。

各自が、魂を磨くことで、自分の魂のグループが磨かれる。という美鈴さんの説が、一番、自分の感覚には近い。

ただし、美鈴さんの説と、私の考えが100%同じというわけではありません。

また、こうした目に見えない宗教観のようなものは、「完全一致」することはあり得ないし、正解も間違いもないと思う。なぜなら、確認しようがないから。


目的のためにどんなことをクリアしていくのか?

①人を受け入れる・赦す
③自分の魂を受け入れる・愛する・大切にする
③人と共になにかを喜び、分かち合い、助け合う
④「みんな違ってみんないい」と気づく
⑤自己と他人(自分以外のすべて)を大切にする

つまり、できごとや人間など「すべて」を受け入れ、すべてに感謝できるようになること。それが、目的ではないかと思うのです。

魂を磨くという点においては、一般社会で言われている「成功」は必ずしも「成功」ではない。一人勝ちという時点で、それは「魂が磨かれること」ではない。

かといって、「お金儲けは悪」という固定観念のある人が「成功者」をただの金金亡者だと決めつけている場合があるが、「お金があるからこそ人を助けることができる」ということもあるもの。

お金を稼げないのに綺麗事ばかり言うのは、やっぱりそれも、ある種のエゴだと思うのです。

「エゴ(利己)」が悪、というのも偏った考えで、自分のためにと描いた絵が誰かを癒したり、「利他」の精神で「人のために」したことが、かえってその人を追い詰めてしまい、その人を失望させてしまうこともある。助けたつもりが、その人が自力で這い上がる力を奪ってしまうかもしれない。それは本当の意味では「利他」なのか疑問です。

話が逸れたけれど、つまり、一般的な「成功」と、魂磨きの「成功」とは全然ベクトルが違うよって話。

「魂」は、喜怒哀楽や感動によって、磨かれ、光輝く。

悲しみを知る人の方が、より光り輝くし、しくじったり立ち止まったりすることは決して「だめ」なことではない。むしろ、自分の「ダメなところ」に気づけることは、魂磨きの第一歩。そして、自分の欠点を愛し、大切にできるようになること、人の失敗を受け入れて寄り添うこと。その先に、自分の喜びも、人の喜びも、同じように喜べるようになっていくこと。そこまでいくと、さらに魂は光り輝いていく。

それを「愛」と呼ぶのなら、愛を感じ、愛を広めていくことが、魂磨きの目的と言えるのかもしれない。


魂を光らせて命を閉じるとどうなる?(大きな目的)

あの世に戻った時に、自分のソウルグループに歓迎・感謝され、ソウルグループがさらに光り輝くそうです。これも、美鈴さんがおっしゃっていました。

私には、そのシステムはよくわからないけれど、
「みんなのために、私はここへやってくる約束をしたはずだ」
という感覚は、小さいころからありました。

7歳の時点で、「今回の人生は大変だから」と思っていたのを記憶しているから。そして、「使命がどんなことだったかは忘れたけど、私の役割があったはずだ」とは気付いていたのです。

 

具体的にはどんなことをしていくの?

具体的に、どんなふうに魂を磨いていくものなんでしょうか。
大きなテーマとしては、

・自分のエゴ・愚かさ・尊さ・大切さ・本当の想いに気づく。
・「悲しみ」「嫌い」「苦手」を受け入れられるようになる。
・すべて(自分・他人・この世界・人生)を受け入れられるようになる。

ということになるのかな。

例えば、
・どれだけ嫌な目に遭っても、
その人を恨んだり憎んだり復讐したりするのではなく、
その「できごと」を丸ごと受け入れて、
その「相手」を許し、こだわりを手放し
その醜さに影響されることなく「美しい心(慈悲)」であり続ける
・自分(肉体と精神)も、すべてに感謝して大切にする

といったところでしょうか。

その辺り、あらためて明文化してきていないので、なにか忘れているかもしれないので、思い出したらまた書きます。

すべてを受け入れ、すべてを愛する。ということが、最終目標なのだろうと思います。そして、無邪気に純粋に、この世を楽しめるようになることが、ゴールの「幸せの世界」のような気がします。

そこに至るまでの苦難として

・「かわいそうな自分」を卒業する
・過去はどうあれ「未来を決めるのは自分」だと知る
・これまでの世間の常識や固定観念を外していく
・過去のパターンから卒業する
・批判・批評・ジャッジをしない
・人を思い通りに動かそうとしない
・価値観や思考、物の見方を変えていく


といった、修行が出てきます。実は、自分で自分の足枷をいくつもつけていて、そのために、周囲に対して喜怒哀楽していることに気づかされていきます。

それらを「修行(人生の課題)」と捉えるか、「嫌な問題」だと捉えるか。それは、自分次第。

どうしても受け入れ難いのであれば、「常識に左右されつつ、努力や思索で乗り越えるべきであり、努力した者は評価されるべきだ。評価してもらえない自分はダメな人間だ」という負のループ渦巻く「いま自分が見ている世界」に、ずっと居続けるのも仕方ないでしょう。

でも、自分の意識次第、決断次第で、世界は変わって見えます。そのためにまずは自分が変わるしかないのです。

自分が変われば、周りも変わる。

驚くほど、世界は輝いていきます。
自分の味方はこんなにたくさん居たのだと知ることができます。
自分の世界を位置づけているのは、自分だと気づきます。

今。私のいるステージでは「味方がいっぱいの素敵な世界」です。
もしも、そうなりたいなら、私の話を参考に読んでみてください。

なにも補償はしません。
なぜなら、自分以外のだれかに補償してもらってから進むというのは、他人もご自身のことも、どちらも「信じていない」からです。

世界は「私は、私の人生を生きるぞ」と『覚悟』を決めた人」の味方をしてくれます。

でも、「あなたが補償してくれるのなら『そっちの世界』へ行ってもいいけど」という受け身で、他人任せな姿勢でいる人は、「そっちの世界」にはシフトチェンジできないのです。

すべては、自分次第。
覚悟を決めて、自分の人生を生きると決めなければ、自身の「安全」を本当に自分のモノにすることは難しいのです。

私たちは、私たちの意志で、この世にやってきた。

と仮定してみると、「悲しみ」の眼鏡でこの世界を見続けるか、その眼鏡を外してみるのかは、自分で決められるはずだと思いませんか?

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