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解ろうとする気持ち

父に勧められて「戦争は女の顔をしていない」という本を読んだ。といっても文庫版ではなく漫画版、しかも1巻目しか読んでいないので語るには半人前以下である。句点を打つたびにキーボードの上の手が止まり動かない。何を書けばいいのかわからない。でも今語らなきゃいけない、今残さなきゃいけないということだけはわかってる。

「戦争は女の顔をしていない」は、1985年に旧ソ連で単行本として刊行された。2015年にノーベル文学賞を受賞したアレクシエーヴィチのデビュー作で、主著の一つ。第2次世界大戦(特に独ソ戦)に狙撃兵や洗濯部隊などで従軍した旧ソ連の女性500人以上の証言をまとめた。漫画版は、その女性一人一人の証言をコマの中に情景描写している。証言者の一人称による語り調であるため吹き出しはほとんどない。自分は紙で縦に書かれた長い文章を読むのが苦手なので漫画になったのはありがたかった。なにより文庫版では一行で書かれて話の本筋にはなっていない部分も、漫画になるとそれぞれ1コマとして平等に描かれるため、証言者が一番伝えたいことではないだろう小さな事柄にも思いをはせることができた。
久しぶりに漫画を読んで泣きかけた気がする。感情的になった自分に対し、なぜ心打たれたのだろうかを分析しなけらばいけないという俯瞰癖が出てしまう。メタ認知は大切だけど、目の前のことにのめり込めなくなってしまうのでこういう映画や小説、漫画に触れる時は損をすることがある。

1話目を読み終えた時、自分の知識がこの1年で如何に飛んでったかを実感した。おそらく去年の今頃は世界史を極めいっていたので、「独ソ戦」や「女性兵士」そのものに関して詳しくはなくとも時系列や社会情勢、国家の対立関係は把握していたからもっと深い考えをすることができたのだろう。知識が抜けているから考える土壌も育ってないし、この日報を書く速度も普段の3倍は遅い。ならばまずwikipediaを読みにいこう。

とてつもなく長かった。30分以上かかった気がする。復習のためにざっくり説明します。独ソ戦はWW2中の最大戦線であり、また歴史上最大の戦死者を出した。WW1の賠償金の支払いに必死だったドイツは資源とカネが少ないが技術はあった、一方ソ連は資源はあったが産業の発展がロシア革命の影響もあり遅れていた。ベルサイユ体制下で戦勝国から阻害されていた共産主義とファシズムの摩擦があったものの両国は独ソ不可侵条約を結び反ベルサイユ同盟を画策し、WW2開戦に向けた資源と技術の補完関係を構築する。開戦後、両国はしばらく協力関係にあり同盟国を追い詰めていた。しかし1940年に西部戦線での戦況が悪化したドイツは資源の獲得と反共を掲げ東欧への侵略を画策し対ソ戦の準備に入る。兼ねてからドイツは資源がすくないため戦争を継続するには侵略と搾取の連続が必要であり、ヒトラーはこの対ソ戦を単なる領土侵攻のみならず「イデオロギーの戦い」として西部戦線よりも重要視するようになる。1941年にバルバロッサ作戦の発動で独ソ戦が開戦。初期はドイツお得意の電撃戦でモスクワ近郊まで領土を拡大したものの、圧倒的人的資源と広大な領地、冬季の戦闘技術、そして後半の同盟国からの補給により最終的にはソ連がベルリンを陥落させドイツは1945年4月に陥落する。

というのが一連の流れだ。重要なのはソ連が勝利した要因である、「圧倒的人的資源」が結果的に大量の戦死者と長い持久戦(総力戦)を生み出したことだ。民間の戦死者を含めるとソ連は2000〜3000万人が死亡し、ドイツは約600〜1000万人である。みて分かる通りソ連が如何に人員を注ぎ込み犠牲を払ったことか。結婚適齢期の男性に関しては丸々1世代分を失ったと言えるとロシアは現在でもその影響が人口ピラミッドや産業構造に残っているそう。そしてそれでも足りなかった人員は他国に類をみない人数の「女性兵士」で補われることになる。
本の話に戻ると、「戦争は女の顔をしていない」ではその女性兵士達のエピソードをまとめている。彼女達は男性と違って徴発されてきたわけではなく、自ら志願して戦場に赴いている。女性達は戦場において差別され、活躍が正当に評価されなかった。それでも軍人であることをやめなかったことに、彼女達の祖国愛とそれを醸成した共産主義の強力な愛国教育がうかがえる。

独ソ戦で女性兵士たちは十分な補給が与えられず、生理用品はおろか女性用の下着すら存在しなかった。冬の進軍の最中、女性兵士の隊列のあとに男性兵士が続く。男達は歩くその道に、雪の白に赤い斑点がついていることに気づく。それはおりものがズボンまで染み込みそれが凍ることで内股を裂き、そこから流れる血のあとであった。彼女達は泣きながら歩き続ける。それでも軍人であることをやめなかった。

女であることを男が理解することはできない。男であることを女が理解することはできない。ただ、解ろうとする意思は持ってもいいと思う。もし自分がそこにいたら、なんて声をかけるべきなんだろう。声をかけないべきだとしたら、それは彼女達にとって本当に嬉しいことなのだろうか。雪の上に連なる血痕を、みて見ぬふりをしたあの兵士たちに同化しないように、思いやりは持てるのだろうか。

狙撃兵となったある女性のエピソード。任務は日の出から日の入りまで12時間以上続き過酷であった。しかし仕事を終え基地に帰り、就寝前には必ず同じ部屋の女たちとリュックに隠し持ったハイヒールを小さな鏡の前で履いておめかしをするのであるという。またある救護隊員は、前髪を固めるために毎晩与えられる砂糖をなめずに取っておくのだという。明日の食事があるかもわからないあの戦場で。そしてどんな勲章を持っていて人を何十人と殺していようが宿舎にネズミが出ると全員悲鳴をあげるし、女のドロドロとした関係は戦場にも持ち込まれるのである。軍人であることと同時に、女であることもやめなかったのである。

「死ぬことより、恥ずかしいことの方が怖かった」

この気持ちを僕たちは理解できるのだろうか。女性であることの誇りを僕たちは尊重できているのだろうか。きっと理解はできていないし、尊重もできていないんだと思う。理解と尊重が本当に必要だと思わされる原体験をせずとも生きれるほど豊かで、男女差別が目に見えない社会になってしまったから。俺も、同じ気持ち、同じ痛み、同じ屈辱を本当には解れないから怖いんだ。もしそれがわかっていたら、まごころを渡すのは容易いだろう。でもわからないから、何を渡すべきなのかがわからない。何を言えばいいのかわからない。どう行動すればいいのかわからない。

だからこそ、こうして解ろうとする気持ちを持つことは大切だ。死ぬことより、羞恥を晒すことを嫌った彼女達の思い。
戦闘の最前線で川を見つけた女性隊員たちは敵の攻撃を無視して川に飛び込んでいった。男達が後方で銃撃戦を繰り広げる中、川で身を流す彼女達は半分以上がその場で射殺されたという。そのことがわかっていても身を流しに行く彼女達の思考を、「馬鹿げている」と思ってしまわないように。自分がそうはしなくても、価値観を尊重して行動ができるように。人間が絶対的に持つ孤独は、こうして乗り越えて行くものなんだと思う。

フェミニズムに陶酔しSNSで叫ぼうとは思わない。でも、もし次に彼女ができたら。最初のあの日にはなんと声をかけようか。支えられるかな。優しくなれるのかな。孤独を乗り越えれるのかな。解れないからこそ、わかりたい。わからない恐怖から逃げたくない。それが手触りのある暖かさであって、まごころであって、優しさなんじゃないだろうか。

この文章量に対してかれこれ2時間以上も書いている。でも決して時間を無駄にしたとは思わない。何を語ればいいのか迷いながらも書き続けることが大切だ。みなさんも是非読んでみてください。


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