深淵

意図はしていなかった。

幼少期、足元を見たらうっすらと浅い溝があった。足の横には子ども用のスコップが置かれていた。
「この溝を掘り続けなさい。そうすれば楽になる」
そう誰かに促されたような気がした。強迫観念があった。他人はいつも溝を挟んだ向こう側に居た。実の親ですら、向こう側に存在するようになった。

誰かが楽しそうにしている姿を横目に、私は足元の溝を掘ることに勤しんでいた。
溝とスコップが用意されていたとしても、わざわざ掘る必要はなかったと思う。「溝を埋める」「スコップを捨てる」など、違う選択肢はいくらでもあったはず。しかし当時の自分は溝の存在に疑問を抱かなかった。自分の異質な思想を害と認識していなかったし、周囲も私の異様・不気味な行動を咎めることがなかった。
漠然とした不安と恐怖が常に付き纏っていた。皮肉なことに、溝の深さと精神的安定が比例していた。他者と溝を挟むことで自分を保っていたと思う。とてつもなく無慈悲で非情な人間になってしまっていた

幼少期のある時を境に、私は人間に絶望していた。
人間の悪意・無関心・差別・醜悪、そして良心の欠如。
これらを連続して目の当たりにした頃、溝の存在に気付いた。溝が自分の防衛線だと理解できたのは中学校に上がったくらいだったのではないか。
その頃にはもう、溝は河川の域に達していた。自分の精神は汚水のように濁っていた。人や社会を無差別に憎んでいた。汚染された精神を流す場所として、河川レベルになった溝は都合が良かった。河川が氾濫するまでは。

「私は異常だ」
氾濫した時、己の狂的な面を自覚した。無慈悲で非情な自分はこの世に存在しない方がいいと考え始めた。
悩んだ末に、本来の自分を思い出した。頭が空っぽのまま、誰彼構わず話しかける幼い頃の自分。屈託のない自分。
「あの頃のようには生きられない」
社会が好む人物像と本来の自分がかけ離れていたことによって、溝が発生した。しかし、よく考えたら人も社会も悪くない。全て自分の生き方に問題があったのだ。溝を修復する努力を怠った自分に非があった。

選択肢が絶対一つだけ、なんてことはそうそうなくて。
環境がなんであろうが誰が何を言おうが、結局物事を決めるのは自分なので、その責任は自分が負うものだろう。

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