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[2023.10.04]密室づくりが仕事のぼくは、鎌倉に閉じ込められて心地がいい

薬を飲んだ時だけ熱も下がってとても元気、切れるとガクンとダウンする。を繰り返す。もうなんかまさにヤク中そのものだ。完全に鎮痛剤の依存症だと思う。大麻よりよほど体に良くない気がする。合法で良かった。

病気で仕事休むなんて休みの無駄遣いだから、自宅勤務という概念が広まって本当にありがたい。元気なうちにわーっと働いてくたばったらゴロンとする。ゴロンとするたびに猫が2匹そばに来て一匹は脇腹にそっともたれかかって、一匹は右足にそっと体重を乗せてくれる。少し温かくて少し指圧的な気持ちよさもあり、なによりとてもうれしい。こういう時、犬は独りキッチンにいるため、なんだか気まずい。と、思ってるとちょうどそのタイミングで犬が甘えた声を出したりする。居間に連れてきて一緒にゴロンとする。猫は近づいたり離れたり、犬が近づいたら逃げたりまた近づいたりしている。全員かわいすぎて、ぐふぇ、みたいな気持ち悪い声が出てしまう。どうか犬も猫も、私のことを嫌いにならないでほしい。

好きなドラマの最終回が観られない。観たら終わってしまう。ベターコールソウルも、ものすごい時間をかけて観終えた。今はセックスエデュケーションがそう。1話の最初だけ観て、止めてしまっている。ものすごく観たいのに絶対に観たくない。困ったな。

だいぶ体力が回復したので、夜は横浜のロイホで打ち合わせ。この世でいちばん美味いサラダことピーナッツオイルドレッシングのケールサラダを食べる。麻薬入ってると思う。美味すぎる。
そしてやはりこの世でいちばん美味いデザートことヨーグルトジャーマニーを頼む。が、この日はひどく甘く感じてショックだった。体調のせいか加齢のせいか調理のせいか。天一とか二郎とか何何店がいちばん美味いという人がいるが、ヨーグルトジャーマニーは神楽坂店のがいちばん美味い、と思う。

家に侵入して来るモノについて考えていた。
カマキリ、ヤモリは大好き大歓迎同居希望だが、犬猫にいたずらに殺されてしまうため、未練を残しつつ捕まえて逃す。
レタスやキャベツについたアオムシも好きだ。
ひとしきりボウルにキャベツと一緒に入れて眺める。緑色のうんちまでかわいい。最高。
ナメクジやカタツムリも同じ。しばらく犬猫の手の届かぬ場所に置いて眺めたのちに逃す。
アリも好き。なるべく眺めたい。だけどいつの間にかあまりにも大量に部屋の隅にいる場合がある。頑張って紙とかで掬って外に出そうとするのは初めだけ。一匹殺したらあとはもう同じ。
クモも好き。蜘蛛の巣かっこよすぎ。形も近未来的でかっこいい。害虫捕まえてくれるから大歓迎。やはり犬猫に狙われてたら隔離しつつ、クモにはそのまま家にいてもらう。

害虫。そう、問題は害虫だ。
蚊、血を吸われたらかゆいし、犬猫に伝染病を媒介されても困る。迷わず叩く。
ハエ、滅多に室内に入ることはないが、なんとなく叩くのはためらう。外に逃す。
ハエ、蚊以外の飛ぶ虫も、やはり犬猫が騒ぐのでなるべく早く逃す。
ゴキブリ、誰かと同居の場合一般常識として叩き殺すが、本当は個人的には大して気にならない。

数年前、鹿児島県の甑島を訪ねた時に、島の、外席しかない屋台みたいなお好み焼き屋さんで食事をしていたら、テーブルに続々とアリが上ってきた。アリの隊列はあれよあれよと数を増し、数を増すごとに行動も大胆になり、初めは警戒していた皿の上にまで侵入してくる数匹の勇者が現れた。
お好み焼きをごく小さく切り分け、勇者たちのかたわらにそっと置き、自分の食べる分は皿の反対側に寄せた。
アリたちの、実に美味そうに食べている様子を楽しみながら食事を楽しんでいたが、アリの大軍はやがて暴走を始め、私の分と取り決めたはずのお好み焼きに、堰を切ったように押し寄せ出した。
その瞬間だ、神の鉄槌のごとく、お好み焼き屋のばあさんの手がにゅっと出てきて皿ごと奪っていき、お好みを新しい皿に移した。古い皿はアリごと屋台の流しへ持って行かれ、隊列が崩れ混乱している、テーブルに残された、まだお好みにたどり着けてすらいない哀れなアリたちは、ばあさんの持ってきた殺虫剤で一斉に駆逐された。
なんで…と思わず声が出た。
あんたアリ見てなんで避けないの、変わった子だね。と言われた。もう食べないなら下げるよ。いえ、食べます。とてもおいしいです。と言った。

同じようなことは何度かある。
横浜で開かれた音楽のフェスに友人数人で行って、レジャーシートを敷いて飲み食いをしながら緩くライブを楽しんでいた時だ。
やはりレジャーシートの端にアリが集まり始めていた。アリがレジャーシートに上がってきて友人たちに殺されぬようにと、シートから数センチの距離で隊列をキープしてくれるように、メロンパンのカリカリした部分を細かくいくつかのポイントに置き、アリたちを誘導しようと思った。
アリたちはこちらの意図を汲んでくれたかのように、レジャーシートの縁と並行に綺麗に並んでくれた。私の計画がうまくいけば、メロンパンポイントに従い、カーブを描いて花壇へ戻っていく寸法だ。計画通りカーブができるかのかどうか注意深く見守っていたその時、ビールを買って戻ってきた友人の靴が、その隊列を踏みつけた。
ふぇぇという声が出た。踏みつけを逃れた残りのアリは当然パニックになり、その多くがシートに上がってきてしまった。げ、アリじゃん。そう言われてウェットティッシュで一掃された。

誰かにとって大切なものも誰かにとってはゴミ同然。浜崎あゆみもTO BEでそんなことを歌っていた。ゴミならまだマシで、害虫ってのは、多くの人間にとって迷わず殺しても良い存在なのだ。

どうして殺して良いのか。
人にとって殺して良い生物ってなんなのか。
筆頭は食肉だ。私も牛豚鶏羊などかなりたくさんの肉を食べてきた。実際に殺して食べた体験に近いのは2回だけ。ラオスの山村に泊まった時と、京都の西部講堂でヒッピーが開いてたフェスに参加した時。どちらも締めてみろと言われたけどできなかった。短絡的なので、どちらも、え、ベジタリアンなろうかな、と思った。でもならない。美味い。肉は美味いのだ。人々が肉を食って美味いという感情を満たすために殺されるための家畜を育てている人がいてそれを殺してくれている人がいてその労力に一秒も思いを馳せることなく舌鼓を打つ自分がいる。魚も同じ。植物も抜いた時に悲鳴をあげていることがわかった。と言う記事を見た。雑草抜けなくなっちゃうよ。
ここまでの生き物が殺されることに関しては大抵の人は「かわいそう」と言う感情が湧き上がる。

多くの虫だってほとんどの人はそうだ。急に飛んでいる蝶を捕まえて羽をむしったら、蝉やクワガタを捕まえて潰したら、残酷だ。と言う人がほとんどだろう。

では蝉が家の玄関前でひっくり返っていたら?
蹴飛ばして生きてるかどうか確かめたりして、結果、蝉が人生最後の力を振り絞って飛ぼうとする想像以上に大きな羽音や、壁やガラスにぶつかる音を、多くの人は蝉爆弾と言って怖がる。虫が好きな自分にとっては、それは応援の時間であり、土のある場所にもどしたりするのだが、わずらわしく感じて叩き殺す人もいるのかも知れない。

では蝉が家に入って来たら?
その爆弾的な威力は段違いに上がるだろう。なんとか逃げようとしてパニックになった蝉は家中のあちらこちらに体をぶつけながら不安定に飛び続け、その様を怖いと感じる人は、玄関先よりさらに多いだろう。ほとんどは窓から逃がそうとするだろうが、家主の意にそぐわない場所に留まり続けた場合、やはり叩き殺す可能性がある。

蚊、ハエ、ゴキブリのように害虫でなくても、そして食べる目的がなくても、人は生き物を殺す場合がある。それはどうやら恐怖(並びに、気持ち悪いというような蔑んだ感情)を感じた時と、自分のテリトリーに侵入されたと感じた時のようだ。それって野生生物そのものだよな。と思う。
おそらく本能と言うやつなんだろう。学術的なことなんて何も調べず書いているから全然違うかも知れないけれど。

けどまだ人間は、他の生物の生態にはない、生物を殺す理由を持ち合わせていると思う。憎しみである。

長年、銀色のステンレスの小さめの容器を、猫のエサ入れとして使用していた。鎌倉の家に越してから、暑い時期にはわりと大きめのゴキブリが出ることがしばしばあったのだが、自分にはゴキブリへの恐怖がないため、あまり気にならなかった。
ところがある晩、猫の餌入れに目をやると、ステンレスの容器の幅にみっちりとハマった大きなゴキブリが、実に美味そうに猫の餌をついばんでいたのだ。普段あんなに外部の動きに敏感な生き物のはずなのに、私がかなり近くまで寄っても微動だにせず餌に夢中になっていた。
信じられないくらい気持ち悪いくて、とんでもなく憎かった。
気がつくとそこまで叩かなくても良いのではというくらい叩きまくっていた。

あまりにも嫌だったので、新しい餌入れを買った。ターコイズブルーのホーローで、足がついているので虫もやや上りづらいだろうと思った。しばらくはなんともなかったが、やはりある夜、その中にゴキブリがいた。前回に増して憎くて憎くて仕方なく、だがホーローが割れるのが気になって殺虫剤で殺した。ホーローの器の中をクルクル高速で走り回るゴキブリにありったけの薬剤を噴射し続け、力尽きた。

大切なもの(この場合猫)を踏みにじる生命体(この場合ゴキブリ)に対して、こんなにも憎い気持ちが湧き、その場合こんなにも無惨に殺すのか。と、ハッとした。

戦争がなくならないわけである。
人と虫を一緒にするだなんて、とはあまり思わない。その人にとって大切なナニカ。それは人かもしれないし土地かもしれないし神様かもしれないが、それを踏みにじられた時に沸き上がる踏みにじったナニカへの憎しみは、人が人を殺すのに簡単に事足りてしまうのかもしれない。その時目の前にいる命の重さは、ただ憎いと言う理由だけで殺して良い害虫程度の軽さになってしまうのかもしれない。
なにかを憎んだりしなくていいように、人それぞれの神様が、宗教があるんではないだろうか。
どうしたら人は、ナニカを大切にするが故に起きてしまう憎しみという感情を、ナニカを傷つけない形で昇華することができるんだろう。

そんな話はしていない
私は本気です
戦争はしないです

と、思っているはずなのに、その正気は、いつまで保っていられるのだろうと不安になる。

折坂悠太の正気、早くリリースしてほしい。
いつまでも、正気でありたい、


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