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マヂカルラブリーさんが、すき。

マヂカルラブリーさんが好きだ。最近はラジオも拝聴している。ある回で、ますますマヂラブさんのことが好きになってしまった。


ラジオでは大体リスナーからのメールを取り上げて、マヂラブさんたちがそれに対して突っ込んだりコメントしたりする。その中に語感の良いフレーズ(ただし結構な下ネタ)が出てきて、それに対して村上さん(ツッコミの方)が

「山頭火みたい」

とコメントし、相方野田さん(ボケの方)は

「自由律俳句のね」

と返していた。

さらにその後も、種田山頭火をネタに一悶着あり、最終的には「種田山頭火の子孫に失礼だわ!」みたいな感じで締めくくられていた。


この一連の流れ。あまりに淀みなくスムーズ過ぎて気がつかなかったけれど、山頭火という例えが出てくる村上さん、すごすぎないか?と思った。そして即座に「自由律俳句」と反応できる野田さんの反射神経もすごい。マヂラブのお2人とも、サブカルに造詣が深そうなのは、ネタの内容からしてわかってはいたけれど、山頭火まで引き出しの中にあるなんて、さすがお笑い芸人さん色んなことに対してアンテナが高いんだなぁと思った。そしてその教養をひけらかすのではなく、教養らしからぬ形であってもサラッと面白おかしく、あくまでお笑いとして差し出すことが出来てしまう。なんて大人で、カッコいい教養の使い方をするんだろう。そう感心してしまった。いや、山頭火なんて知ってて当然でしょ、教養でも何でもないよ、という人もいるかもしれないが、少なくとも私の旦那さんにとっての山頭火は、ラーメン屋だった。(え、山頭火って俳人がいるの?と言っていた。)それに知っていても、咄嗟に山頭火という例えが出てくるマヂラブさんたち、やっぱ天才。そう思ってまた一段と好きになってしまった。



山頭火を知らない旦那さんをちょっと小馬鹿にしたけれど、かくいう私も、山頭火はたまたま知っていただけだった。祖母の家に山頭火の俳句「分け入っても分け入っても青い山」と書かれた額縁が飾ってあって、幼少の頃からそれを目にして、それでなんとなく覚えていた。そのおかげで私はマヂラブさんの「山頭火」をかろうじて面白おかしく感じることができたのだ。

その瞬間、現在と過去がリンクしたような、気持ちの良い感覚があった。

私はさっき、教養と言ったけれど、私にとっての教養は「知らなくてもいいけれど、知っていた方がなんかいいこと」みたいな感じだ。マヂラブさんの山頭火の使い方は、知識を知識としてひけらかさず、ユーモアとして提供するかっこいい教養の使い方だった。それに、それをわかった自分も嬉しかった。あの日、あの時、あの部屋で何気なく見ていた山頭火の俳句を、今でも自分が覚えていること。祖母が飾っていなかったら、山頭火を知らず今日まで生きていただろうか。私もいつか自分の家を持って、子どもを持つようになったときには、壁に絵を飾ろう。彼らが育った数十年後、いつか答えがわかったらいいな、と願うように。







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