【食べたいものを食べるエッセイ】マックのポテト

今日は仕事が終わった後、ピアノのレッスンがある。そのあとは買い物があるし、そんなこんなで家に帰れるのは8時くらいになりそう。

だから、今日は決めている。夕飯は、マックだ。

なぜ急にマック(マクドナルド)なのか。それは、この前見たテレビ「マツコの知らない世界」で、「フライドポテト」の特集をやっていたから。ポテト。身近なのに、最近ちょっと忘れがちな食べ物。そういや、いつから食べてないっけ。そう思い始めたら、無性にあの味が恋しくなった。

だから、今日は不思議と迷わなかった。マック。この選択が、今日の私にしっくりきた。

まず、マックのアプリからクーポンを選ぶ。古くなった我がスマホの充電容量が怪しくなってきたけれど、こんなこともあろうかと携帯充電器を持ち歩いているので、万事順調。クーポンを見せれば、スマートに注文できるし、安くなるしでいいこと尽くし。そういえば、私の大学時代の友人は、マックのポテトが大好きで、必ず注文するとき「塩、多めで」と言っていた。すると、店員さんは小さな袋(多分ポテトのSサイズの袋)に塩を入れて渡してくれるのである。まるでなんかの粉薬みたいに。なんかマフィアの危険な取引(イメージ)みたいで、ちょっとおかしかった。



「すみません。カードは使えないんです。」



お会計時、クレジットカードを差し出すと、感じのよい店員さんに感じよく断られてしまった。


***


いつのまにか、大人になった。


マックの袋を下げて、マックの匂い立つ帰り道、ふと思ったのだ。大学時代、駆け込み寺のように通っていた、マック。そこで、バカ話をしたり、時には真剣な話し合いもした。マックは、私たちの涙も笑いも、包み込んでくれた。いや、厳密にいえば包み込んでくれてはいない。ただ、受け流してくれていただけ。ただ、その時はそれが圧倒的に正しかった。寄り添うでも、包み込むでもない。そこにあったマック。そのぶっきらぼうで無骨で、でもそこにあることがありがたい存在。

大学時代、私は自分がクレジットカードを差し出す大人になれるなんて想像していなかった。マックに行くたびに小銭を探して、1番安い100円マックを頼んでいた私。そんな私が30過ぎて、マックで使えもしないクレジットカードを、使えないとも知らずに差し出し、しかも店員さんに「使えません」と言われ、「ああそうですか。ならスイカで。」と言えるくらいの余裕のある大人の女になったのだ。しみじみ。

私だって、知らず知らずのうちに変わっている。別に、変わることだけがいいことだとは思わない。でも、いつまでも私でい続ける中で、少しでも昔とは違う自分がいることに気づくと、ちょっと安心するのはなぜだろう。


私は大人の女。数ある食の選択肢から、あえてマックを選ぶこともできる、大人の女である。


***


帰宅して私は一人、久々のマックのポテトをむしゃむしゃ食べた。

程よい塩気と、カリカリ部分とふにゃふにゃ部分のコントラスト。一つ前のポテトを飲み込む前に、また次のポテトに手が伸びる。むしゃむしゃ。そんな擬音が、マックのフライドポテトにはよく似合う。食べる幸せ。それは小さいころから、変わっていない。でも大人には、食べたいものを選んで食べることが出来る幸せがある。そんな当たり前の幸せを忘れるほどに、ただそのときは夢中で目の前のポテトをむしゃむしゃと食べ続けていた。幸せ。


一度はサポートされてみたい人生