見出し画像

【7/10日記】簡単に「区別」する私たち

人は誰かを区別したがる。それは、大人になった今も変わらない。

私は幼い頃、大人になればひとりでに人は成熟して、当然誰かを簡単に区別するような生き物ではなくなると思っていたのだけれど、なんか全然違った。私たちは区別する。それは美醜だったり、貧富だったり、男性女性、無能有能、負け組勝ち組。むしろ大人になればなるほど、その区分の多さを知ることになるので、私たちはますます区別するようになる気がする。郵便の仕分けのバイトみたいに、この人はこういう人。そうやってそれぞれのボックスに入れていくのだ。

私はどちらかというと、今までの人生、良い方に区別されてきた方ではなかった。なぜかよく覚えているのは、高校のある先生のこと。その先生は面白い授業をする人で、授業の後必ずリアクションペーパーを書かせた。私は紙いっぱいに感想を書いて、せいぜい丸が貰えるくらいだったけれど、学年一二を争う美形のお嬢様には、感想は一言でも「名前が素敵」というコメントとともに華丸がついたらしい。露骨すぎてみんなで笑ったけれど、ちょっと私はショックだった。いい大人のおじさんで、しかも先生という立場でありながら、高校生でも美人にはやっぱり気に入られたいのだ。内容より、人を見る。そんな現実を突きつけられた気分だった。

今私の職場には、病休明けで働いている人がいる。その人は、お世辞にも仕事が出来るとは言えない人で、復帰した今も休みがち、出てきてもお礼も謝罪もなくしれっとしていて、仕事にもミスが多い。

この前もその人は2日連続で仕事を休んだ。同僚は「また休みですか」と苦笑い、私もどっちつかずの笑みを浮かべた。「明日は来ますかね?」そうやって自分からその人の話題を振ることが時々ある。私は、そんな私を少しずるいやつだと思う。

社会に出ると、今度は厄介なことに仕事ができる/できないの区別が追加される。今の私は、正直ちょっと安心しているのだ。お世辞にも仕事ができるとはいえない人が目の前にいて、自然に自分がそっち側の人間じゃないと言えるから。そして、どんなに言葉を重ねても、美人の名前には勝てないことを知ったあの日のことを、なぜか急に思い出したりした。

そして、そんな「じゃない側」だった思い出が、私をつなぎとめているのかもしれないと漠然と思う。私も通常通り、誰かを簡単に区別する大人になった。でも、私が区別しているのは、本当に他人なんだうか。もしかして自分自身では?他人をこういう人と決めつけるとき、それは自分の現在地も示している。私は目の前の誰かを仕事が出来ないと思うことで、自分はそうじゃないと再確認しているのだ。かっこわる。

じゃない側の思い出は、そんなかっこ悪い私がもっとかっこ悪く暴走しないように、今でも後ろから手綱を握ってくれている感じだ。区別する自分も区別する方も、自分の現在地が不透明で、震えるだけのただ不安な生き物。

というわけで、なんか今流行のポテサラが急に食べたくなった。お惣菜のやつ。


一度はサポートされてみたい人生