見出し画像

『関わる全ての人達が熱く生きる人生に』~これまでの24年間とこれからの人生について~


はじめに



はじめまして!!

池田直樹と申します。

noteを書くのは初挑戦です。

なぜ自分の生き様をnoteに書こうと思ったのか。

それはコーチングを受けたことがキッカケです。

コーチングを受けたことをキッカケに、
僕は今本気で人生を変えたいと思い、
人生を変えるために「挑戦」をしています。

このnoteを書くのも一つの挑戦です。
そして人生が変わり始めています。

なぜ自分の人生を変えたいと思ったのか、
そしてなぜ今変わり始めているのか。
それは自分の"24年間の生き様"が関係しています。

決して華やかな人生ではありませんでした。
何か自慢できるような大きな結果を出してきたわけでもありません。
むしろ結果が出せずに辛いことや、苦しかったことのほうが多いです。
それでも自分は"人"に支えられ、何かを諦めるということは一度もありませんでした。
常に心を燃やし続けてきた人生だとそこは自信を持って言えます。

そんなありのままの24年間の生き様を振り返りここに記しました。

もし今何かに悩んでいる、これまでの人生で何も結果を出せずにいて自信を持てずにいて、心の火が消えかけている人がいたらぜひこの自分の生き様を記したnoteを見てほしいです。
あなたの心の炎を必ず燃やします。

そしてタイトルにもある

『関わる全ての人達が熱く生きる人生に』

ここに懸ける想いを伝えたいと思います。

かなり長くなってしまいましたが、魂を込めて書きました。
最後までお付き合いいただければ幸いです。


この世に生を授かる


1996年8月20日群馬県の伊勢崎市で生まれた。

小さい頃はとにかく落ち着きがなかった。
熱々のコーヒーを頭からかぶって大やけどした。
フーセンガムを鼻に突っ込んで取れなくなり大騒ぎになった。
親と買い物に行ったときは車屋の重ねてあるタイヤの中に入って隠れて誘拐騒動を起こしてしまった。
隠れてお菓子を食べようとハサミで袋をあけようとしたら誤って自分の指を切ってしまった。

そんな自分に落ち着きのある人間になるようにと、姉がやっていたということもあり、5歳から姉と同じ書道教室に通うことになった。

〈いきなりですが番外編ということで"書道"のことについて書きます〉
この書道は5歳から中学3年生まで計10年間続けた。
書道は特別好きというではなかったが、字がどんどんうまくなっていき、級や段が上がっていくのが嬉しかった。
小学一年生から中学3年生までの9年間毎年学内で賞をとり、学校の代表として県の展示会に出展された。
おそらく小学校も中学校も何百という生徒の中で書道が自分より上手い人はいなかったと思う。いつしかそれだけ書道に対して自信がついていた。
賞をとると両親は喜んでくれ、毎年必ず展示会に行ってくれた。一緒に行くのはなんだか恥ずかしかったが、両親が喜んでくれている姿をみるのが好きだった。自分の力で両親を喜ばせることができているという実感がすごく嬉しかった。

そして10年間続けた中で一番の結果は「師範」の称号を得たこと。
中学生までの子どもたちに書道を教えることができる免許のようなものだ。

「継続していれば必ず実力となり、自信につながる」ということを書道を通して学んだ。
書道を通じて『継続は力なり』というのが座右の銘となった。

そして書道は自分の人生において様々な場面でピックアップされ自分を表現する1つの武器となった。初対面の人には必ずと言って良いくらい「字がうまい」と言われた。
あの時書道を習わせてくれた両親には本当に感謝しかない。


 小学校時代

〜先生に怒られてばかりの悪ガキから全校生徒の代表になる〜

小学校時代は1年生の頃から悪さばかりして先生から毎日のように怒られていた。
6年間で何度放課後先生に呼び出され、校長室にも謝りにいったかわからない。親も学校に呼び出されかなり迷惑をかけた。

友達と取っ組み合いのケンカをしたり、人の家のガラスを割ったり、帰り道にお店のジュースを勝手にのんだり、理科の実験中に先生に隠れて火遊びしたり、他にもいろんなことをしてたくさん怒られた。

今考えると先生にも両親にもかなり迷惑をかけて申し訳ないが、友達と遊ぶことが大好きだった自分にとって当時はそうやって友達とバカやっている時間がとても楽しかった。

 小学3年生の時のクラスの担任に、

「物事の後先を考えて行動しろ」

と口酸っぱく言われた。
そのせいか、良くも悪くもこれをしたらどうなるのかと物事の先を考えて行動するクセがついた。

先生に怒られてばかりいたが、別に学校や先生が嫌いとか、勉強が嫌いとかでは全くなかった。授業もちゃんと受けていたし、怒られてはいたが成績も良かった。

スポーツはテニスと水泳をやっていて、ずば抜けて運動神経が良かったわけではないが学校では運動神経がいい方で、運動会では毎年リレーの選手、水泳大会の選手、駅伝のメンバーにも選ばれた。

行事ごとでは全員一丸となって目標に向かって取り組むというのが大好きで、常にクラスの先頭に立って、運動会では団長、学級委員にもなりクラスのリーダー的存在だった。

そしてそんな姿を見てか先生から小学5年生のときに児童会(生徒会のようなもの)に入らないかと言われた。6年生の時には児童会長へ立候補し選挙の結果、全校生徒から選ばれ児童会長となり全校生徒の代表となった。

小学校低学年からは全く考えられなかった姿である。
どんなに悪さをしても先生が見捨てないで叱ってくれ、真正面から自分に向き合ってくれたことで自分は変われた気がした。
怒られてばかりだった自分は、この経験から自分は誰かから褒められる、期待してもらえる、自分という存在が認められることに嬉しさを覚えた。

そして自分には『リーダーシップ』の能力があることに気づいた。

この小学校での変化の経験が今後の人生に大きく影響を与えた。  

中学校時代

~文武両道 順風満帆の中学生活~

 中学へ上がる前に1つ選択があった。
自分が住んでいた地域に新しく中高一貫の学校が出来、自分が入学したら一期生だった。その時は中高一貫だったら高校受験しなくて済むし、「一期生ってなんかカッコいい!」と思っていた。
しかし中高一貫は受けず地元の中学校を選んだ。

理由は
友達が大事だったからである。

もっと小学校からの友達と一緒に学校生活を送りたいという思いがとてつもなく強かった。
中学校生活を想像したときに、中高一貫に進むより、小学校の友達と過ごす中学校生活の方がワクワクした。

そして地元の中学へ入学。
中学校は学校行事・勉強・部活・恋愛・遊び全てに全力で最高な毎日だった。

小学校の経験からリーダーシップがあることに気づいた自分は、
中学3年間クラスの学級委員になり、部活では3年生の時キャプテンを務めた。

部活は小学校から続けていた硬式テニス部がなく、ソフトテニス部しかなかったため、ソフトテニス部に入部した。
同学年に小学校からソフトテニスやっていて、小学生時代県選抜にも選ばれていた2人(KとT)がいた。その2人は中学1年生ながらすでにレベル違いだった。
中学3年間はその2人を超えてやることと、自分の中学の歴代の最高の成績が関東大会だったので、自分の代でも関東大会に出場することを目標に取り組んだ。
KとTのの存在のおかげで自分の実力も伸び、中学1年時の新人戦では個人ベスト4だった。準決勝でKとTのペアにあたり惨敗した。今でもはっきり覚えているがその時はたしか2点しか取れなかった。笑

その後3年間個人・団体共に自分も県大会に出場はしていたが、県大会止まり。
KとTは自分たちが3年生の時には市内の大会では常に個人優勝、県大会でも上位に入賞し関東大会にも出場した。結局中学3年間でその2人を超えることはできなかった。
しかしそんな最強な2人と毎日練習していたおかげで自分のレベルはかなり上がった。県を代表する選手が身近にいるということはかなり恵まれていた。

"環境"がいかに大事かということを学んだ。

自分が成長するには
"自分より高いレベルの環境に身を置くことが成長スピードを加速させる"
ということを学んだ。

勉強では中学1年の最初の定期テストで学年男子1位となり、全体でも1桁順位だった。
勉強が特別好きだったというわけではないが、やった分テストで点数として目に見えて結果が分かるのと、先生や親友達からもすごいと褒められることが嬉しくて、中学は3年間男子3位以内そして全体でも10位以内を貫いた。

通知表はオール5も取れことがあり、中学3年間の評定平均は4.9(Maxは5.0)。県内の行きたかった県立の進学校を選んだ。
受験は前期試験と言って、学力試験ではなく、評定での判断と軽い筆記試験と面接のみで受けることができた。
 そして第一志望の高校に合格することが出来た。
めちゃくちゃ嬉しかった。自転車を爆速で漕いで真っ先に家に帰り親に報告した。

そして中学はなんといっても最高の仲間ができた。
部活以外の時間はほとんど全部その仲間たちといた。
いいことも悪いこともしたが、仲間と過ごす時間が最高に楽しかった。
あの頃は何でもできる気がして、当時クローズにはまり武装戦線が好きだった自分たちは、修学旅行の部屋で「俺らでチームを作ろう」なんて話したりもした。
高校はみんなバラバラになったが高校生になってもずっと集まり、地元を離れ社会人となった今でもその仲間たちとは地元に帰ったときは集まっている。
生涯大事にしたい最高の仲間である。

※ちなみにクローズは自分の人生のバイブルであり、小学5年生の時に初めて読み、これまで何度読み返したかわからないくらいの最高の漫画である。



 高校時代

〜ソフトテニスに全てを懸ける 受験で人生初の挫折を味わう〜

高校もソフトテニス部に入ることを決めていた。
進学した高校のソフトテニス部は強豪校ではなかったが県内では中堅クラスくらいだった。
自分の入学と同時に、新しく赴任してきた先生が部活の顧問となり、しかもその先生は過去にいた高校でソフトテニス部をインターハイに連れて行った実績のある先生だった。
インターハイに連れて行った先生に指導してもらえるなんて最高だと、それだけでこの高校に来てよかったとその時思った。

この顧問の先生と共にインターハイを目指し、ソフトテニスに全てを懸ける高校生活が始まった。

 一応進学校だったので卒業後は、大学へ進学するというのが決まっていた。勉強と部活の両立の日々だった。
1年生の始めは勉強の成績も悪くなく(280人中40位くらい)でこのまま3年間いけば推薦での大学進学も狙えるといわれていた。
しかし部活中心の生活となり、勉強を全くしなくなった。

勉強もつまらなく感じ、早く部活したい、放課後になってほしいと思う気持ちから自分は授業を寝るようになった。
寝て起きたらその時間が終わって放課後に近づいているからである。
今思い返すとマジで勿体ないことしたなと思うが、当時は自分の体感ですぐ放課後になることが最高だった。

その結果、当たり前だが1年の秋くらいから成績は下がりはじめ、その後もどんどん下がっていった。
気付いたら順位は3桁で下から数えたほうが早かった。
授業中は寝てばかりいたので先生からの評価も悪くなっていった。
しまいには体調悪いと嘘をつき保健室行き、ベットで寝てさぼったりもした。時には先生に反抗さえしたこともあった。

ある先生からは「お前は何しに高校来ているんだ」とも言われた。いつも「別に勉強したくて来てるわけじゃない。」と心の中で思っていた。
勉強面で言えば中学時代と比べると完全に落ちぶれていた。

それでもソフトテニスが出来ればそれでいいと思っていた。インターハイに絶対出るという思いだけは1日たりとも無くならなかった。とにかくソフトテニスをしている時間、目標に向かって努力することがたまらなく楽しかった。

ソフトテニス漬けの毎日だった。

部活が休みの日も学校のテニスコートに行ったり、市営のテニスコートを借りて1日中やっていた。

テニスノートは毎日つけ、自分の感情や、その時どんな思考でプレーをしていたか、そのプレーの選択肢が正しかったのか、他に良い選択肢はなかったかを書いて客観的に自分を見るようにしてた。

自分の高校のソフトテニス部は、3年生が引退し代替わりするとき次のキャプテンは、引退する3年生が後輩を評価し決める制度であった。
そして自分はキャプテンに任命された。

自分がキャプテンになることでチームの士気を上げ、絶対にチームを強く出来ると思っていた。
なぜなら自分が一番練習していた自信があったし、インターハイにかける想いが一番強いと思っていたからである。

しかし現実はそううまくいかなかった。
 6人しかいなかった同期が3人辞めた。
同期と怒鳴りあいのケンカもした。
やる気のない同期に対して詰めたとき、「池田はインターハイに行くっていう強い思いがあるからいいと思うけど俺は別にインターハイにいきたいわけではない。ただ楽しくできればそれでいい。」と自分の熱量についていけないと言われて、1人辞めていった。

部員全員がインターハイにいきたいと思っているに違いないと勝手に自分は決めつけていた。

でもインターハイ出場というのはチーム全体の目標ではなく、自分個人の目標だった。
自分はその個人の目標を周りに押し付けてしまっていたのかもしれない。

自分が目標に向かって誰よりも行動して挑戦していれば周りは自然とついてきてくれるだろうと思っていた。

大きな目標を目指して、それに向かって仲間と取り組んでいくことが楽しいと感じていた自分は、「ただ楽しければそれでいい」ということが全く理解できなった。

当時はやる気のないやつは辞めろと思っていたが、
もっと本人に本当はどうしたいのかを聞いてあげればよかったと今では想う。

自分の当たり前は他の人にとって当たり前ではなく、人にはそれぞれ価値観が違い目指すべき目標(GOAL)がこ違うとを学んだ。

高校3年間いろんな大会で入賞は出来たが、結局インターハイには出場できなかった。
3年間本気でインターハイの舞台を目標にやってきたからこそ、目標が達成できなかったことはめちゃくちゃ悔しかった。

でも引退するときには、後輩が涙を流してくれた。
寄せ書きには「池田さんみたいになりたいです」「憧れの存在です」「池田さんの努力する姿に自分も頑張ろうと何度も奮い立たされました」という言葉があった。死ぬほど嬉しかった。

インターハイ出場という目標叶わなかったが、自分の生き様を見て、「勇気づけられた人がいたこと」「自分も頑張ろう」と思ってくれた人がいたということが、自分が取り組んできた過程は決して間違いじゃなかったんだと思った。

 高校3年生の夏、部活を引退し、本格的に受験モードとなった。
全く勉強してこなかった自分は何からした方がよいのか全く分からなかった。そこで仲の良い友達が行っていた塾に通うことになった。

最初に模試の自分の成績を見た塾の講師に言われた衝撃の一言

「これじゃどこも受からないぞ」

それもそのはず、明確には覚えていないが英語に関しては200点中40点代だった。
そんなに俺ってやばいのかと初めて受験に対する危機感を覚えた。

通知表はよくなかったので推薦という道はなく、勉強するしかなかった。
毎日学校終わってから終電まで塾の自習室に残りとにかく勉強しまくった。それでも英語の点数40点から120点代くらいまでしか伸びなかった。
模試全体でも平気は5〜6割だった。

行きたい大学は特に決まっていなかったがずっとスポーツをやってきてスポーツが好きというのと、部活の顧問の先生の影響を受け、自分も先生となってソフトテニス部顧問につきソフトテニスを教えたいと思うようになり、保健体育の教員免許が取れる学部がある大学を受けることにした。第1志望は国立の教育学部を目指していた。

センター試験だけでは合格は厳しいと分かっていたので2次試験の実技試験で巻き返すつもりでいた。
奇跡が起きるわけでもなく、センターは案の定5割くらいで、そのまま国立の2次試験を受けたが結果は不合格。
後期試験もダメもとで受けたがほとんどセンター試験の結果が影響するためもちろん不合格。

初めての挫折を味わった。

でも不思議ともっと勉強しておけばよかったという後悔はなかった。
1年生からの自分の勉強を振り返ったらそりゃこうなるとどこか自分でわかっていたのかもしれない。

後悔はなったが親を喜ばせてあげることが出来なかったことと、自分の生きたい大学に受かった友達と比べてしまい自分の情けなさが日に日に込み上げてきた。

第1志望の国立は落ちたが浪人はしたくなかったし、保健体育の教員免許がとれるスポーツ系の学部ではなかったが滑り止めで合格していた私立の大学に進学しようと決めた。
入学手続き書類に記入し、明日郵便局へ出しに行くところまで準備が終わった。
そして寝ようとベッドに横になった瞬間、なぜか急に

「俺はこのまま大学へ進んでいいのか?」

という思いが込み上げてきた。
入学手続き書類にも記入し、押印もした、あとは明日郵便局に出しに行くだけ。覚悟は決めたはずだった。

しかし、本心はこの結果に納得していなかった。

この選択はめちゃくちゃ妥協した結果。
「俺はこんなもんじゃないはず。もう1年勉強したら行きたい大学に行けるのではないか」

浪人は絶対イヤだったはずなのに、もう一年挑戦したいと思う自分がいた。
このまま妥協で決めた道に進んだら絶対にダメだと直感で感じていた。

そして新たに覚悟を決めた。

次の日の朝、起きて一言、両親に言った。

「もう一年頑張らせてほしい。」

両親は「一年の遅れは長い人生で見たらなんてことない。がんばれ。」
と賛成してくれた。

こうして自分の高校時代は幕を閉じた。

挫折も味わったが、部活に全てを懸けた最高に熱い高校生活だった。



 浪人時代 

浪人生活がはじまり、予備校に通った。

国立大学を目指し、2次試験は実技試験を受ける予定だったので、勉強だけではなく体力も落とすわけにはいかなかった。
だから、朝から夜まで予備校にいき、帰ってきたらランニングと筋トレをするというのが1日のスケジュールだった。

 浪人時代は英語に一番力を入れた。
その結果びっくりするくらい英語が伸びた。
現役時代は良くて120点代、だいたい100点~110点付近をさまよっていたが、模試で170点代まで伸びた。
冬には模試で8割代が安定して取れるようになっていた。

現役時代足を引っ張っていた英語が自分の武器となった。
他の科目も順調に伸びていったが、国語だけは波があった。
でも国語の点数が悪くても英語やほかの教科でカバーして第一志望の国立の判定も安全圏には入れた。
今年は行けると思った。

そしてセンター当日。

自信があった英語でやらかした。

今でもなぜかわからないが、試験時間を勘違いして焦って解いてしまった。結果センターの結果は7割くらい。
目指していた国立大学の判定はボーダーラインギリギリくらいだった。

2次試験で挽回出来れば可能性は十分あった。
2次試験は、小論文と、体力テストと専門実技。
専門実技はソフトテニスを選択した。
2次試験の手ごたえは悪くなかった。むしろ自分的にはよかった。
しかしセンター試験の結果が響き不合格だった。
諦めず国立の後期試験まで受けたが、ダメだった。

 さすがにもう1年浪人は気力的にも出来なかった。
保健体育の教員の免許も取得できるし、行きたかったスポーツ系の学部ではあったので滑り止めで合格した東洋大学行くことに決めた。

結果からしたら現役のときと変わらない私立大学への進学になってしまったが、この1年挑戦して良かったと心から思った。
1年前のあの「このままでいいのか」というモヤモヤした気持ちはなかった。

結果が同じだったとしても、
"挑戦しないで納得出来ずに進む未来"と、
"挑戦した結果納得して進む未来"
絶対後者のほうが胸を張れる人生になると思った。

何より苦手だった英語がめちゃくちゃ伸びことが嬉しかった。
高校3年の部活を引退したときなんて40点だったのに、170点代まで伸びるなんてあの頃の自分では全く想像もできなかった。


「やればできる」

「挑戦すことに意味がある」

ということを小さなことだったが浪人を得て体感した。

この時は目指していた国立大学に行けず、東洋大学にいくことになってしまったことに落ち込みはしたが、結果的に東洋大学に進むことが出来て良かったと、浪人して良かったと大学を卒業する時に心から思うことになる。


 大学時代 


大学1年生

新たな挑戦の始まり~ラクロスに出会う~

 もともと大学もソフトテニス部に入る予定だった。
しかし活動時間の関係で入部は出来ず大学生活何しようと悩んでいた。
そんな時にラクロス部の勧誘を受け体験会にいった。
そしたら見事にハマった。

新しく挑戦するスポーツだったから、どんどん新しいことが出来るようになるのが楽しかったというのもあるが、1人の先輩から

「ラクロスはほとんど全員が大学から始めるスポーツだから自分の努力次第で日本代表にもなれる」

と言われ、自分でも日本代表になれる可能性があるということに惹かれた。

その時自分にそう話してくれた先輩はその後自身がU-22日本代表になり、
アジア大会で優勝し個人でタイトルも獲得した。
その先輩のラクロスに対する姿勢・考え方がカッコよく憧れの存在となった。

しかしずっとやってきたソフトテニスも捨てがたく、ソフトテニスのサークルも考えており、最初はソフトテニスのサークルにも顔を出していた。

それでもラクロスの魅力にどんどんはまっていき、入部はしていなかったが体験会はもちろん授業の空き時間やお昼休みも毎日馬鹿みたいに練習していた。
入部をしている同期よりも練習していて、「まだ入部してないの?」「早く入部しなよ」と毎日のように言われた。

入部を決めきれずラクロスとソフトテニスをやる生活が5月まで1か月続いた。

そんなある日。
ゴールデンウイークに「ラクロスの試合があるから見に来ないか」と先輩から誘われ見に行った。

そこで衝撃を受けた。
試合の雰囲気、点を決めたときのチームのボックス・応援席の熱狂、勝ちたいという思いをむき出しの泥くさいプレー、
全てに心を熱くさせられ"ラクロスやりたい"と心から思った。

俺の大学生活を熱くしてくれるのは"ラクロス"だと、
その時に4年間をラクロスに捧げると入部を決意した。

ソフトテニスという個人スポーツをずっとやってきた自分は、サッカーのようなチームスポーツに憧れを抱いていた。この大声援の中で点を決めたらどれだけ気持ちいのだろうかと考えただけでワクワクが止まらなかった。

試合を見ていた時に、まだ入部もしていない自分に先輩から

「来年はお前がチームのエースとしてフィールドに立って点を決めているんだぞ」

と言われた。
その言葉にさらに胸が熱くなり来年このフィールドに俺は立って絶対に点を決めると心に誓った。そしてその時会場で拾ったボールにその場で「来年優勝する」と書いた。

画像1



そしてゴールデンウイーク明けの5月6日
入部届を出した。
ラクロス部としての大学生活がスタートした。

入部式では新入部員挨拶の時にOBと全部員の前で「日本代表になる」と公言した。
とにかく毎日ラクロスをやりまくった。
部活の練習は週5回(月:18:00~21:00、水・木7:15~9:00、土日7:30~12:00)だったが、純粋にラクロスが楽しい、もっとうまくなりたい気持ちを止められず、休みの日も、雨が降っていようが関係なくグラウンドに朝から行って毎日練習した。

朝練後も1限に授業がない日はお昼まで自主練、
空きコマや次の授業のまでの合間10分間でも壁当て、お昼休みも壁当て、放課後も壁当てやシュー練というのが自然と1日のルーティンになっていた。

金曜日は5限にしか授業がなく5限が16:20からだったが、朝7時くらいから学校のグラウンドへ行き16時くらいまでずっと練習していた。
周りからは「努力家だね」なんて言ってもらえること多かったが自分は努力をしている感覚はなかった。
練習しなければという思いではなく、うまくなるためにただ純粋にラクロスをやりたくてやっていた。まさい"Want to"の状態だった。

自主練の時は先輩も一緒に練習してくれたくさん教えてくれた。
同期のマネージャーの1人が、そのマネージャーも金曜は部活がオフで授業も5限だけなのに、自分と同じように朝からきてボトルに水を用意してくれたり、プレーの動画を撮ってくれていた。

そのマネージャーに「なんで自分はプレーするわけでもなくただ見ている時間の方が多いのに、オフにも関わらず朝早くからきてここまでしてくれるのか」と聞いた時、
「池田が頑張っているからこっちも応援したくなって何かしたくなった」
と言われた。

自分の熱が誰かの心を動かすということを経験した瞬間だった。

自分が何か目標に向かって行動してそんな自分を見ることで、誰かの心の火をともし、「自分もなにか行動したい」と思って貰えることがとても嬉しく、その時から自分がいることで、周りを熱くする太陽のような存在になりたいと思うようになった。

そして迎えた初めての練習試合。
スタメンで出場し開始10秒もしないくらいで自分が点を決めた。それが先制点、試合での初得点、チームの初得点。最高に気持ちよかった。
その試合チームは勝利し、自分は得点王だった。
人間やれば出来るということを実感出来た。
さらにラクロスにハマっていった。

1年生の前半は、8月にある1年生のみで出る新人戦に向けて練習していた。
チームでは「優勝」を目標にした。

順調に進んでいたが大会1カ月半前に、自分は怪我をした。足の指の疲労骨折だった。
休みなく練習していた結果、身体が疲労に追いつかなった。
自分の身体のケアの甘さが招いた結果だった。
そこから3週間ラクロスが出来ず、リハビリ生活が始まった。

「ラクロスが出来ない」

辛かった。
大会が迫っていく中で自分は復帰してからパフォーマンスを戻せるのか。
どんどん周りの動機が上手くなっていくのを日々目の当たりにして、自分は試合に出れるのか。
いろいろな不安と焦りに襲われた。

しかもそんなタイミングで、同期の1人が先輩のいるAチームの練習試合に呼ばれた。
「何で俺はこの時期に怪我をしているんだ」と、
やるせない思いと悔しい思いが止まらなかった。

それでも周りにも支えられ、やるしかない、ここで腐ってたまるかと、復帰後は怪我前よりレベルアップした姿を見せると心に決めリハビリに取り組み3週間が過ぎた。

そして復帰した。
大会までは残り2週間、
やっとラクロスが出来ることに最高にワクワクしていた。
8月になりその状態で4泊5日の合宿が始まった。
しかし完全に自分のプレーのレベルは落ちていた。一番は感覚が完全に鈍っていたこと。
試合でも以前のように活躍ができない。
練習試合ではあったが試合後はチームが勝っても自分のプレーのふがいなさに悔しくて涙を流していた。

そんな時に声をかけてくれたのは、入部前に「日本代表になれる可能性がある」と言っていた憧れの先輩だった。

「ここで腐るな。怪我明けなんだから上手くいかないのは当たり前。お前ならもっとやれる。」

この言葉に救われ、大会までには誰よりも上手くなってやるとがむしゃらに取り組んだ。

向かえた大会当日、スタメンには選ばれなかった。
試合には出たが活躍もできずチームも予選リーグで敗退した。
悔しくて、悔しくて、めちゃくちゃ泣いた。
次の日はオフだったがグラウンドへ行って練習した。
立ち止まっている暇はなかった。

そしてついにシーズンインし、リーグ戦が始まった。

自分は応援で、試合後は声を出しすぎて毎回声が枯れていた。
「直樹の声はめちゃくちゃ聞こえる」とプレーしていた先輩からよく言われた。
そのくらいリーグ戦は心が熱くなって、プレーしている先輩はカッコよくて、声を出さずにはいられなかった。
来年は必ず自分は応援席ではなく、選手としてフィールドに立つと心に決めた。

〈2016年10月〉
4年生が引退し、キックオフミーティングを終えて新チームがスタートした。
早速AチームとBチーム分けが行われた。

自分はBチームだった。

これも死ぬほど悔しかった。
自分がBチームなことに納得出来なかったが、これが自分の現状のレベル。コーチからみたら自分はまだまだAチームのレベルではないと、すぐには無理だったが受け入れた。
リーグ戦に出るにはAチームでなければならない。
自分は来年リーグ戦に必ず出る、そのために絶対にAチーム上がってやると、そこから毎日上手くなるためにどうすれば良いのか考え行動した。

まず現状自分は何が足りないのかコーチ・先輩に直接聞いた。
アドバイスを元に自主練のメニューを考えた。
今までは、ただ上手くなりたいとがむしゃらに練習していただけだったが、しっかりと目的意識を持ち考えながら練習するようになった。

練習は7:15〜だったが、毎回6:30にグラウンドへ行き練習前にシュート練と壁当てをしていた。
練習後のアフター練習も当たり前にやった。
Aチームの先輩とは通常の練習では一緒に出来ないため、アフター練習は毎回一緒に練習してくださいと頼んでたくさん教えてもらった。
練習のビデオは何回も見直して自分のプレーを客観的にみて、良かった点、悪かった点、このプレーをしたときどんな思考だったか、どうしたらもと良いプレーが出来ていたかなどをノートにまとめて、自分のプレー動画をピックアップして自分の考えとともにコーチに送ってアドバイスを求めた。
そんなラクロスづけの生活が毎日続いた。

そして年が明けて2月。
ヘッドコーチからAチームの練習試合に招集された。

その試合でのプレーがヘッドコーチに評価されAチームに上がった。
上がれたことは嬉しかったが満足はしてなかった。なぜなら自分の目標はリーグ戦に出てプレーすること。Aチームに上がれても試合に出られないことはざらにある。
ここからがスタートラインだった。
そして春を迎え、学年が変わり2年生となった。


大学2年生

~思考を現実にする~

2年生になりすぐ5月に大会あった。
そう、去年(大学1年生の5月)自分が大学生活をラクロスにかけると決意したキッカケとなった大会である。

当時先輩から
「来年はお前がチームのエースとしてフィールドに立って点を決めているんだぞ」
と言われたあの言葉を忘れたことは一度もなかった。

予選リーグの相手は1つ前にあった大会で優勝・準優勝したチーム。
下馬評では自分達は負けるだろうと言われていた。
それでもチームに「周りがなんと言おうと関係無い。俺らは必ず勝つ。」と言い続けた。
東洋は負けると言っている奴らを絶対に度肝抜かしてやると思っていた。

そして迎えた大会当日。

〈予選リーグ第1戦目〉
相手に先制点をとられ0-1と1点を追う展開。

そしてその時はきた。

自分が放ったシュートがゴールネットを揺らした。

点を決めた。

1年間思い描いていた思考を現実にした。

その大会チームの初得点。
ゲーム振り出しに戻す1点。
会場の熱気が一気に上がった。
自分に駆け寄ってくるフィールドの選手達、
盛り上がるベンチと応援席、
その中心に自分がいる。
最高に気持ち良かった。

あとでその試合の動画を見返したが、ビデオを撮っていたマネージャーは自分が点を決めたとき泣きながらビデオを撮ってくれていた。

たかが1点だがその1点で泣いて喜んでくれた人がいたこと、人の心を動かせたことがめちゃくちゃ嬉しかった。
その試合は3-3の同点だったが、第2戦は5-1で勝利し予選リーグ1位で決勝リーグ進出を決めた。

〈決勝リーグ1回戦〉
決勝リーグまできたら優勝してやると意気込んでいた。
しかし0-1で負けた。自分達に勝った相手は勢いそのまま勝ち進み優勝した。
本気で優勝を目指していたから悔しくて試合が終わった瞬間泣いた。
前回大会同様また悔し涙を流した。

この大会も結果が残せず、「俺はこのままで日本代表になれるのだろうか」とこの先のことが正直不安になった。

その日の夜は大会お疲れということで打ち上げがあった。
悔しい気持ちは消えなかったが仲間と悔しい気持ちを紛らわすかのように馬鹿みたいに騒いだ。

でも悔しさが紛れたのはその時だけでみんなと解散した後はまた悔しさがこみ上げてきた。

「あの場面でこうプレーしてたら…」と何度も思い返した。

いくら頭で考えても、馬鹿騒ぎして紛らわしても悔しさは消えない。立ち止まっている暇はない。やるしかないと次の日はオフだったが練習にいった。

このときから
「不安」は行動することでしか無くすことは出来ない
と自然と気づいた。

5月の大会が終わり、そこからは8月から始まるリーグ戦に向けて日々取り組んだ。
上手くいかないことのほうが多く、先輩にもプレーで怒られることはしょっちゅうで、練習試合ではあったが自分のせいで失点したときは試合中に悔しくてベンチで泣いたこともあった。

それでもくじけなかったのは当時のキャプテンの存在だった。

このキャプテンはもちろん入部前自分をラクロス部に勧誘してくれ「ラクロスは努力次第で日本一になれる」と日本代表を目指すきっかけとなった存在。自分の憧れの存在だった。

厳しいことも言われたこともあるが、自分が上手く行っていない時はいつも気にかけて声をかけてくれた。
「お前は俺と似てる。弟のような存在だと思っている。」と言われた。
めちゃくちゃ嬉しかった。

キャプテンとポジションも一緒だったため絶対この人に追いつきたい、一緒にプレーしたい、この人のために戦いたいというその思いが自分を常に奮い立たせていた。
だんだんとAチームの練習試合でも点を決められるようになっていき、コーチからも「一番成長している」と言われた時は半端なく嬉しかった。

でもリーグ戦が近づいていきメンバーを絞っていくようになると、練習試合に出るメンバーは上級生がメインとなり自分の出場機会は減っていった。

それでもまだ可能性はある。俺は絶対にリーグ戦に出てキャプテンと一緒にプレーをすることを諦めることは無かった。

そして8月になり迎えた4泊5日の夏合宿。
夏合宿ではさらに出場機会が減った。
しまいに合宿最後の試合はBチームの試合に出るように言われた。
「実力がないからとかではなく、Bチームの人数の関係でAチームから数名出さないと行けなくなったから」と言われたが「絶対にAチームでは試合に出すきがないからじゃん」と正直思った。
このときはだいぶへこんだ。

でも合宿最後の試合だしやるだけやろうと思った。
Bチームの試合ではあったが久しぶりに長時間試合に出た。点も3点決めた。試合は快勝した。正直試合はくそ楽しかった。

このとき自分はAチームで試合に出ることだけを考えて完全にラクロスを楽しむ気持ちを忘れていた。
Bチームの試合に出たことでラクロスは楽しいモノだと改めて思い出した。

合宿が終わり、迎えた2度目のリーグ戦。
全試合メンバーには選ばれた

1戦目、2戦目、3戦目、4戦目と勝った試合もあるが序盤から相手にリードされる試合が多く、そうなると自分は当たり前に出場出来ない。
2勝2敗で迎えたリーグ最終戦の第5戦目、このときはもう1部入れ替え戦への可能性はなくなっていた。つまり4年生の引退試合。
最終戦は4年生中心で試合は出て自分は1秒も出場出来なかった。

振り返ってみればリーグ戦が5戦あって、自分の出場時間はトータル1分もなかった。

ヘッドコーチの信頼を得られなかったこと、
憧れていたキャプテンと一緒にプレーが出来なかったこと、
試合に出れずチームが負けている状況の時にただベンチからみているだけという何も出来ない虚しさ、今まで何のためにやってきたのかとこの時はめちゃくちゃへこんだ。
自分の中ではやれることはやってきたつもりだった。それでもまだまだ足りなかった。
ただそれだけ。

それでもこの時ばかりは何でラクロスやっているのか分からなくなった。
でも今思い返すとこの2年生の1年間が4年間で一番成長したなと思う。

そして4年生が引退し、キックオフミーティングを終えて新チームがスタートした。
自分は憧れのキャプテンの背番号「10」を受け継いだ。
憧れから超えるべき存在となっていた。

この冬は自身のレベルアップ、そして来年1部昇格するためには1部の大学のチームと同じ基準でやらなければダメだと思い、1人でも1部の大学へひたすら武者修行に行った。
1部の大学の練習の雰囲気、どんな練習をしていてどんな意識を持ちながらプレーをしているのか、いろんなことを吸収してチームに還元しようと思った。
あとは単純に自分の力が1部の大学のチーム相手にどれだけ通用するのか試したかったのと、意識が高くレベルの高い選手がいる環境でプレーすることが刺激的でとても楽しかった。

1部の大学は全ての基準が違った。パスキャ(パス&キャッチ)の制度、シュートの決定率、球際の強さどれも自分のチームより段違いでレベルが高かった。
この環境にいたら確実に自分は上手くなると感じた。
けど自分が一番練習する場所は自分のチーム。
だからこの環境を自分のチームでも作りたい。
そう思って自分が得たモノは全てチームへ還元していった。

しかし自分の思いとは裏腹に問題が発生しまくった。
新チーム始動時はみんなやる気があってチームの雰囲気も良かったのだが、時間が経ち慣れてくると冬の期間は体力トレーニングがメインでラントレが多くなるため、チームの大半がキツいことがイヤになり寝坊や休むやつが多くなっていった。

何が問題だったかというとその寝坊や休むやつが最上級生になる先輩と自分の代から多く出てきた。
平日の朝練は特にひどかった。人数がいなすぎてやりたいメニューが出来ない。
またあいつ寝坊か、休みかと練習開始前に一度気持ちが落ちる。
それでもこの状況を変えなければいけないと、チームメイトには声をかけ続けた。
先輩ともコミュニケーションをとりなんとかやる気を出してもらおうと関わっていった。
しかしなかなかその状況を変えることは出来なかった自分の力不足が今でも悔しい。。


大学3年生

~人生初の大怪我。「最悪の経験」と「最高の経験」をする。~

春になり新入部員が入部した。
自分は1年生の育成係になった。
大学ラクロスは基本的に学生主体で活動をするため、組織作りから毎日の練習メニューの作成や1年生の育成もコーチではなく選手が全てやる。

人数が多いチームだと学生コーチというものを作れるのだが、自分のチームの人数はそこまで多くなく全員が戦力なため、選手がやる必要があった。

育成につくと、自分の練習時間を削って1年生の練習をみるため自分が練習する時間はどうしても減る。しかし1年生は未来の東洋大学ラクロス部を作っていく可能性を秘めた存在。手を抜くことなく育成をした。1年生がどんどん上手くなり成長していく姿を見るのがたまらなく嬉しかった。
自分の練習時間が削れた分は自主練で補った。


そうして夏休みに入り、リーグ戦に向け練習していたリーグ戦までちょうど1週間前のある日の練習。

自分に最悪の事態が起きた。

その日は2部練習の日で午前中はラントレがメイン、午後はラクロスの組織練習がメインという流れだった。
午前中ラントレメニューが終わり、普通にラクロスの練習をしていたら急に左足の膝が曲がらなくなり、その後痛すぎて立つことも出来なくなった。

膝がパンパンに腫れていった。

特に接触とかがあったわけではなかったため原因が分からなかったが、
歩けないくらいの状態だったので練習を抜けすぐに病院へ行った。
MRIをとり診断の結果、

「半月板損傷」

だった。

医者には手術することを勧められた。
頭が真っ白になりしばらく話すことが出来なかった。

手術したら完治して復帰できるまで最低半年はかかる。
つまり今年のリーグ戦は出られない。
出られないどころか今年はもうラクロスが出来ない。

それだけは嫌だった。

なんとかリーグ戦に出られるようしてくれないかと頼んだ。

今すぐ手術をすれば今年はリーグ戦出場出来ないが、来年の自分の代では完治してプレーが出来る。

手術をしなければ今年のリーグ戦出られるがリーグ戦が終わってから手術となると来年のリーグ戦に間に合うかわからない。

今年は諦め手術をして来年に備えるか、
手術をせず今年にかけるか。
どちらかを選ばなければならなかった。

親や周りの仲間からは手術を勧められた。
めちゃくちゃ悩んだ。

でも何より大好きな先輩とプレーが出来なくなるのが嫌で、今年1部昇格して自分達の代では絶対に1部の舞台でプレーがしたかった。

昨年(大学2年)ベンチにいただけで何も出来なかったから、何が何でも今年は試合に出て勝利に導きたかった。

悩んだ結果手術はしないことを選んだ。

もしかしたら来年プレー出来なくなるかもしれない。それでも今年に懸けたかった。
先輩と一緒に1部昇格を果たしたかった。

1ヶ月間安静にし、リーグ戦1戦目2戦目は出られなかったが、1ヶ月に復帰し毎日痛み止めを飲みながら、膝はテーピングでガチガチに固定して3戦目からリーグ戦に出場した。

しかし、以前のようなプレーが出来なかった。
膝をかばって思い切りプレーが出来ない、もともと1対1を積極的にかけてゴールを狙うプレースタイルだったが、痛みとこれ以上酷くなったらと考えると対人のプレーが怖くなっていた。
覚悟を決めて手術しないことを選んだはずなのにいざやったら怪我にびびっていた。
情けなかった。
周りにはそんなことを悟られないよう強がって振る舞った。
それでもプレーには出てしまう周りもそれに気づいていたであろう。

リーグ戦3戦目、4戦目、5戦目と無得点。チームとしても全敗。
リーグ戦0勝5敗でリーグ最下位、2部・3部入れ替え戦の出場が決まった。
そして12月に入れ替え戦が決まり、入れ替え戦までの2ヶ月。
この期間に最上級生である4年生が連絡もなしに急にやめたりと、チームの雰囲気もまとまりがなく、最悪の雰囲気だった。

それでもそんな状況に諦めない男がいた。
当時のキャプテンである。
一番つらかったであろう、でもこの男だけは諦めていなかった。
なんとかチームを盛り上げようと周りに声をかけ、毎日グラウンドにきて練習していた。
そんな姿を毎日見ていて絶対この人には笑って引退してもらいたい。
絶対に最後勝って笑顔で引退させる。
最後はこの人のために戦うと心を燃やした。

そして迎えた2018年12月8日【関東2部・3部リーグ入れ替え戦】当日。
4年生の引退試合であり、負ければ次の年自分達の代は3部リーグでプレーすることになってしまうという絶対に負けられない試合。

この日は自分の人生で忘れることのない1日となる。

試合会場はJ1の川崎フロンターレのホームグラウンドである川崎スタジアム。
試合開始時刻は18時~ナイターのライトが眩しいくらいに光っていた。

そして試合岸開始。

先制点は東洋が決め1-0。

勢いそのまま2点目を自分が決めた。

点を決めた瞬間スタンドから湧き上がる歓声。

気づいたら応援スタンドに向かって走って行き思い切りガッツポーズをしていた。

やっと決めたリーグ戦での初得点。

「ただいま得点を決めましたは、東洋大学背番号10AT池田直樹選手です」というアナウンスが流れ、その会場にいる全員が自分に注目していた。

感情が爆発した。めちゃくちゃ気持ち良かった。

画像2



その後東洋は得点を重ね4-0。
だが相手は3部リーグ全勝で得点力が高い、
勢いのあるチーム、油断は出来なかった。
その思いは的中した。
1点1点と相手は得点を重ね、4-4に追いつかれ、
そして4-5と逆転された。
イケイケモードだったチームの温度間が一気に変わる。
でも不思議と負ける気はしなかった。
絶対勝つという根拠のない自信がどこかにあった。

誰もが諦めず絶対に勝つという思いがあったのだろう。5-5同点に追いついた。
迎えた試合終盤、この日無得点だったキャプテンが最後の最後で逆転の1点を決めた。
会場の熱気は最高潮に達した。
まさに漫画のような展開だった。

そして試合終了のホイッスルが鳴った。

6-5勝利。

泣き崩れる選手、勝利に安心して笑顔になる選手、抱き合って喜ぶベンチと応援スタンド。

自分自身も勝てたこと、来年の自分達の代に繋げられたこと、なによりキャプテンに勝って引退させることが出来たことにめちゃくちゃホッとして、力が抜け膝から崩れ落ちた。

いろんな感情が溢れて涙が止まらなかった。

画像3


4年生が死ぬ物狂いで残してくれた2部の舞台。
来年自分等の代で絶対に1部昇格すると心に誓った。

入れ替え戦が終わり、ヘッドコーチの推薦もあり
日本代表選考会のメンバーに選ばれた。

入れ替え戦が終わったら膝の手術をしようと考えていたが、
日本代表になると決めて始めたラクロス。

選考会に行かない選択肢はなかった。

最初で最後のチャンス。

この日のためにやってきたと言っても過言ではない。

現状の自分の全てを出し切った。

しかし日本代表にはなれなかった。

膝を怪我していなかったらなんて考えたがそんなの言い訳でしかなかった。
選考会には上手いやつがごろごろいた。
やっぱりレベルの高い環境でやるラクロスは最高に楽しい、もっとあの環境でラクロスしたかったと心から思った。

こうして大学3年生のシーズンは終わった。

シーズンが終わったが選考会もなんとかこの状態で出れたので、このまま来シーズンも行けるのではないかと思っていた。
しかしその後どんどん膝の調子は悪くなっていき、痛くて走ることが出来ない日も多く、水が溜まっては病院へ水を抜きにいくという繰り返しだった。
さすがにやばいと思いセカンドオピニオンで地元の大きな病院にスポーツ専門の整形外科があるということで診て貰うことにした。

MRIを取り診察の結果、

「即手術を受けてください」

と言われた。

状態がかなり酷くなっていた。半月板の損傷はもちろんだが、軟骨まですり減っていて、全十時靱帯も切れかけていた。

授業の関係もありすぐに入院は無理だったため、大学が春休みに入る2月に手術を受けることになった。
復帰までは最低半年かかるため来年の8月まではラクロスが出来ないことが決まった。

リーグ戦に間に合うかどうかも分からない。

しかも来年は最上級生となり、自分達の代。

自分は副主将であり、オフェンスリーダーになっていたため、そんな自分がリーグ戦直前までラクロスが出来ずチームを離脱することに焦りと不安を抱いた。

それでも周りは自分のことを信じて待っていると言ってくれた。
「今まで直樹に引っ張ってきて貰った分これからはチームは俺らに任せて、しっかり直して強くなって戻ってこい」と言ってくれた。

そして冬の期間は来シーズンに向けたミーティングを重ねた。
1部昇格するためになにが必要か。
自分達が他大学に勝る強みは何か。
来年の目標・スローガン・チームコンセプト・どんなオフェンスをするか。
リーグ戦から逆算してどの時期までにどんな技術を身につけておくべきか。
どんな状態になっているべきかなど年間計画も考えた。
1部昇格するには今までと同じことをやっていてはダメだと、変化を起こす必要があると思い、今までにない新しい取り組みにも挑戦することにした。


https://ameblo.jp/toyomenslacrosse/entry-12426848832.html

これは代が変わってすぐに書いた当時の自分のブログ。
どんなチームにしていきたいのかと自分の最後の1年に対する覚悟が記してある。


手術することが決まり、自分はプレーが出来ない分チームのためを第一に考えて行動しようと思った。
最上級生であり、副主将であり、オフェンスリーダーとなり、責任が生まれ自分よりチームを優先して考えるようになった。

プレーが出来なくても練習中は誰よりも声出した。

後輩への指導と同じポジションのメンバー1人ひとりにアドバイスを行った。

この冬はいつもだったら他大学へ武者修行にいっていたが、他の選手は武者修行させてあげたいと他大学へ東洋の選手を武者修行受け入れてほしいとお願いしまくった。

そうして2月を迎えて自分は手術をするために地元に帰った。
手術は無事終わり、入院生活が始まった。

入院中は毎日リハビリ、就職活動の準備、チームの練習動画がYouTubeにアップされるため練習動画を見てチームの選手に気になったところなどアドバイスを個人LINEで送っていた。

チームを強くするために組織のマネジメントの本を読んで勉強したりしていた。

そして退院後は松葉杖だったので1人で生活するにはまだ厳しかったため、1ヶ月間自宅で安静にということで実家にいた。

そうして3月下旬大学の授業も始まるため埼玉に戻った。


大学4年生

~4年間の集大成 『人』に支えられた1年~

ついに大学生活最後の1年が始まった。
4月には部活へも戻った。
4月・5月は就活も本格的にスタートしたため、忙しい日々を送っていた。
松葉杖無しに歩けるようになったのは5月からだったため、4月中は松葉杖をつきながら就活をしていた。

部活の方はリハビリと1年生の育成、チームのマネジメントで忙しかった。
昨年に引き続き育成はやはり人の日々成長する姿が見ることが出来るのでやりがいがあった。
就活の方は順調に進み6月に第一希望だったところから内定を貰え、終了した。

膝の方はだんだんと走れるようになりリハビリを積み重ね、7月後半から少しながら練習メニューにも参加していった。
久々にやるみんなとのラクロスはめちゃくちゃ楽しかった。
仲間の成長に驚いたり、心の底からあふれ出す目標を叫んだり、最高の時間だった。

そして迎えた最後の8月の4泊5日の合宿。
全試合は無理だが膝の調子をみながら試合には出て良いと医者からOKは貰った。

この合宿がまた辛かった。

半年以上もプレーをしていなかったのだから当たり前だが、思い通りのプレーが全く出来ない。
チームも連敗が続き勝たせることが出来ない。
最上級生として、副主将として、オフェンスリーダーとして本当に情けなく悔しかった。
いくら口では良いことを言っても自分で体現出来ていないことが何より悔しかった。
こんな自分にチームは付いてきてくれるのか不安だった。正直自信を失いかけていた。

そんな自分にヘッドコーチがこんな言葉をかけてくれた。

「それでも自信をもて」

『上手くいかなくても、悩むことが多くてもそれでも自信を持ちなさい。

チームとして、これから強くなるのに(技術的にも精神的にも)必要なのは、「気持ち」。

「気持ち」が変われば行動も変わる。
そのみんなの「気持ち」を変えるために、
「勝てるという自信」と「チームで勝った瞬間の素晴らしさ」と「自分が素晴らしい瞬間をどれだけチームで共有したいか」をたくさん伝えてあげてださい』

この時、自分の現状にしか目が向いていなかったことに気づいた。
チームが勝つことではなく、自分のリ-ダーとしての見え方ともっとプレーが上手くなるにはだけを考えていた。

そうじゃなかった。
自分の周りにはともにここまで苦楽をともにしてきた仲間がいる。
その仲間を信じてどれだけ全員が勝つことをイメージし、勝つことに対して行動できるよう引っ張り上げることこそ自分が果たすべき役割だった。

そこからはひたすら周りに、「チームで勝った瞬間の素晴らしさ」と「自分が素晴らしい瞬間をどれだけチームで共有したいか」を伝え続けた。
仲間の可能性を心から信じ、話した相手が勝ったときのビジョンが鮮明に思い浮かぶように伝えた。

個人としては”在り方”にこだわった。

試合中の、試合が決まるであろうここ一番という瞬間に自分自身が決めきるという「自信」。

そして、それを自分自身が出来なかったときにチームが負けることに対する「責任」。

その双方を、誰になんと言われようと、どんな苦しい状況でも、ぶれずに自信を持ち続ける「プライド」。

この3つを常に意識して日々取り組んだ。



そして迎えた最後のリーグ戦

『0勝5敗』

全敗した。

昨年に続き一勝も出来なかった。
そして2年連続で関東2部・3部リーグ入れ替え戦へ進んだ。
入れ替え戦も負け3部リーグへ降格した。

3部に降格させてしまい、なんて最悪な代だと部員みんなに顔向けできない。その場から今すぐにでも逃げ出したくなった。
降格したということは後輩達の一部でプレーしたいという未来もつぶしてしまった。

思い描いていた引退とは真逆だった。

ここまで読んでいて思った人も多いと思う。

「こいつ大学4年間で何も目標達成出来ていないじゃん」

自分はこの4年間「日本代表になる」「一部昇格する」と目標を掲げ常に周りに言ってきたが、何一つ目標を達成出来なかった。
自分なりに目標達成のために4年間やってきたつもりだったが、引退が決まった時は「あのときもっとできたのではないか」とか「こうしていたら変わっていたのかな」などいろんなことを考えた。

それでも大学生活にラクロスを選んだことに後悔はなかった。

目標達成は出来なかったが、全て自分が挑戦し続けなければ得ることが出来なかった4年間である。

ラクロスという新しい世界に挑戦せずに普通の大学生活を送っていたら、
こんな苦しく辛い思いはしなくて済んだだろう。

楽な毎日を過ごせていただろう。

でもラクロスをやっていなかったら心の底からこんなにも最高に熱くなる経験は出来なかった。

そしてこんなにも『人』としての成長は出来なかった。

1年生の頃から学年をまとめる副キャプテンになり、
4年次は副主将とオフェンスリーダーを務め、60人くらいの小規模ではあったが組織の『リーダー』を経験できたこと。

チームが強い組織になるために、毎日現状の自分達に何が足りないか、どんな技術を身につける必要があるか練習メニューを考え、組織を動かすことの難しさ、何か一つの目標に向かって取り組むことの素晴らしさ、『組織のマネジメント』を経験出来たこと。

自分のチームを強い組織にするために、1部の大学や社会人ラクロスチームに武者修行に行ったり、組織のマネジメントを学ぶために、一部の大学のヘッドコーチに直接アポをとり話を聞きに行きチームに落とし込んだ。
とにかく自分が知らない、外の世界に飛び混みまくって『行動力』がめちゃくちゃについた。


理想の自分に向き合うことに疲れ、
「自分には日本代表なんて無理なのではないか」
「自分は憧れのキャプテンのようになれないのではないか」
と諦めようと何度も思った。

結果が出なかった度に、もう楽をしようかなと何度も考えた。

失敗や挫折を数え切れないほど経験した。

いつも大会前の大事な時に怪我をして、最後まで怪我に悩まされた。

上手くいったことや最高な思いをしたことは数えるくらいしかなく、
上手くいかないこと、悔しいこと、辛いことの方が圧倒的に多かった。

その度に現状から逃げようと、それをごまかそうとする自分がいた。

そっちの世界に逃げた方が楽だってことは分かっていた。

けれど、そんなときにいつも自分と向き合わせ、
立ち直らせてくれ、奮い立たせてくれたのは、
自分の周りの『人』の存在だった。

時に厳しく時に優しく声をかけてくれ、自分の進むべき正しい道を示してくれた『コーチ』と歴代の『キャプテン』。

「頼むぞ!」と「直樹ならやれる!」と自分という存在をどんな時も、そして最後の最後まで信じてくれた『先輩』『後輩』『同期』。

辛い時は励ましてくれ、一番近くで応援してくれ、どんなときも支えてくれた『彼女』。

最初はずっとやってきたソフトテニスを続けてほしいとラクロスをやることに反対していたのに、わざわざ試合に見に来てくれたりと、4年間応援してくれた『両親』。


この存在がいつだって自分を奮い立たせてくれた。強くしてくれた。
どれだけ自分の原動力となり、自分の背中を押してくれただろう。

4年間をラクロスというものに全てを懸け、本気で過ごしたからこそ、ラクロスが与えてくれた、気づかせてくれた自分の『誇り』であり『財産』である。

東洋大学という組織を通じ、そしてラクロスという競技を通じ、かけがえのない様々なものに出会えた。

そして『人』という存在が持つ"可能性"と"人間そのものの素晴らしさ"を目の当たりにした。
この4年間の経験が間違いなく今の自分をつくっている。

自分が『人』に支えられ背中を押して来てもらったからこそ、これから歩む自分の人生は、自分が誰かの背中を押してあげ、奮い立たせる人間になり、
誰かのために命を燃やしたい。
そう思った。

大学4年間のラクロス人生から多くのことを学んだ。

【自分が目指した目標のためなら誰よりも努力出来ること】

【失敗を恐れずに行動が出来ること】

【現実からにげたくなるような辛い経験があっても逃げないで立ち向かえること】

【自分が何かの目標に向かって行動している熱量は誰かの心の火を燃やすということ】

【誰かのためにという思いが心を燃やせること】

大学生活こんなにも熱くなれると思わなかった。
5年前に、1年浪人する覚悟を決め、東洋大学に進むことを選んでくれたあの時の自分に心から「ありがとう」を言いたい。

東洋大学に決まった時は落ち込んでいたが、お前は「自分の選んだ道を正解にしたぞ」と伝えたい。

1年浪人させてくれ、私立大学にも通わせてくれた両親にはかなり金銭面で負担をかけてしまった。それでも常に自分のことを応援してくれた両親には本当に感謝しかない。必ず恩返しをする。

心を燃やし続けた最高の大学生活だった。

画像4


社会人1年目~現在

~私立大学に入職。大学職員になる~ 

〈大学職員を選んだ経緯〉
仕事は「誰かのために」頑張れる仕事に就きたいと思い、「他がために」という思いを軸に選んでいた。

大学職員以外にも様々な業種を受けていた。
大工やスポーツインストラクターや現場監督、飲食店経営など本当にバラバラだったが自分の軸に沿って就活をしていた。

部活の先輩が大学職員になっていて声をかけてもらったことをキッカケに大学職員という職に興味を持った。
自分が大学時代ラクロスというものに挑戦し、たくさんの経験をし、大きく人間として成長できたので、学生が自分のやりたいことに挑戦できる環境をつくりたいと思い、大学職員を受けた。
エントリーシートの志望理由にも「学生の挑戦を作っていきたい」と書いた。「学生のために」という思いが強かった。

最終的に「大学職員」と「大工」で悩んだが、大学職員の方が内定を貰うにあたってたくさんの人が関わってくれていたこと、正直年収や福利厚生がよかった部分もあるが、直接的に人(学生)と関わり、人の挑戦ををつくれると思い、大学職員を選んだ。

4月1日社会人生活がスタートした。

入職早々コロナウイルスの影響ですぐにテレワークとなった。
緊急事態宣言で学生も入構が禁止となる。
分からないことばかりだったが、事務的な作業も全ては学生のために繫がっていると思い、目の前のことに全力で取り組んだ。
だんだんと出勤する日も増えてきて、職場の先輩方とも直接関わることが増えた。
職場の人達は優しいし、仕事もすごく大変というわけでもない、福利厚生もしっかりしている、給料にも特別不満があるわけではない。
年収もこのまま務めて年齢が上がっていけばどんどん上がっていく。今のところは将来も安定。

でも何かが足りない。
気づいたら学生時代の時のような熱い気持ちがなくなっていた。
仕事内容はどちらかと言うと直接学生と関わるよりもデスクワークが中心。
もちろん学生と関わりやりがいを感じる時もある。
しかし、もっと直接人と関わって誰かの挑戦を作っていきたい。日に日にその思いが強くなっていった。

「熱い毎日を送りたい。」そう思っても何をしたらよいか分からず日々が段々と作業化していった。
そんな現状に違和感を覚えるようになった。
このまま大学職員として働いた人生の先に熱い人生はあるのか。
自分の目指すべきGOALが分からず、本当は何がしたいのか、ずっと心の中がもやもやしていた。

そんな思いから、筋トレを始めた。
大学時代も部活で筋トレはしていたが引退してからはやっていなかった。とりあえずかっこいい身体を目指そう思った。1ヶ月経つと身体に変化が出てきた。目に見えて結果が出ることが嬉しく筋トレにはまっていったテストステロンの本を買って読んだり、筋トレYouTuberをひたすら見ていた。前より日々が熱く楽しくなった。
けれども仕事をしている時間はモヤモヤが消えなかった。



副業に挑戦する


そんなある日、コロナウイルスの影響で景気が悪くなり倒産していく会社が増えているというニュースを見る中で、将来このままで大丈夫なのか、いつ自分の会社も倒産やリストラされるかわからない、自分で稼ぐ力を身に着ける必要がある思い未来に急激な不安を覚え、副業で物販ビジネスに挑戦した。
実際に物販ビジネスで成功している人にマインドやビジネスにおいての考え方、物販の方法など多くのことを教えてもらった。
新しい世界を知ることは楽しかったし、稼いでいく先に自分が求める何かが見つかるのではないかと思いがむしゃらに物販をやった。
始めてから初月から10万円稼げた。数ヶ月後には副業で50万を稼げるようになった。
やったらやった分結果として出るということが楽しかった。
このまま続けていけば月収100万も夢じゃないと本気で思ったし、行く自信があった。
しかし、お金は増えても心が満たされなかった。
気づいたらお金に執着するようになっていた。
外注さんも雇っていて、人と関わることは好きだったので外注さんを稼がせてあげるためにがんばろうと思った。それでも結局一番上にくるのが自分の稼ぎになるので心から「誰かのために」という思いになれなかった。

この時にお金を稼いでも心が満たされなかった理由はのちのち分かることになった。
大事なのは稼ぐことではなく、稼ぎ方。
そしてどれだけ人の役に立っているかだと分かった。
仕事は大前提「人の役に立つこと」
その対価としてお金をいただく。
これが今の自分にはなかったこと。
だから心は満たされなかったと、この後出会うことになる自分の人生を変えてくれた人物に気づかせてもらった。



「AKIOBLOG」と出会う



そんなときにYouTubeで「会社員」「筋トレ」「副業」というワードが目に止まりであきおさんのAKIOBLOGを見始めた。

自分は会社員で筋トレも好きで副業にも取り組んでいるということで、共通点あるなと思い、ルーティン動画を見たらあきおさんの生き様に魅了されどんどんはまっていた。

同じ24時間でも自分との1日の密度が全然違う、めちゃくちゃこの人熱く生きて、毎日楽しそう。
AKIOBLOGを見ているとなんだか自分の人生は熱くないなと感じた。
あきおさんの副業は、自分の好きなことをしてさらにそれが周りに影響を与え人の役に立っている。自分の副業はどうか、考えてみたら好きなことではない。心からやりたいことではない。人の役に立っているかと言われたら役に立っていないわけではないが胸を張って言えない。そもそもお金に執着するようになっているし。

でもあきおさんは違った。
動画からでもわかる、この人お金に執着してない。

「そうだ。俺もあきおさんのように自分の好きなこと・やりたいことをして毎日が熱い人生にしたい」と気づいた。

大学時代なぜあんなにも毎日が熱く楽しかったのか。

それは「ラクロスで日本代表になる」「チームで一部昇格する」というやり方なんてわからないけど、心から達成したいGOALがありそのGOALに向かって日々仲間と考え行動していたからだった。

大前提お金は大事だが、自分が求めていた本当の目的はお金を稼ぐことではなかった。

何か目標に向かって日々を全力で行動して熱い人生を送ること。

ただこれが自分の求めていたものだった。

でも自分のやりたいことってなんだ?自分の強みをいかせる仕事って?
そもそも自分の強みって何だ?
まずどう行動したらいいのかわからなかった。

そこであきおさんが動画で紹介していたストレングスファインダーを概要欄にあったURLから飛んで実際に受けてみた。

自分の強みのTOP5は、
「調和性」「共感性」「最上思考」「成長促進」「ポジティブ」

「人間関係構築力」に強みがあるとのことだった。

解説を読んでいったら腹落ちすることばかりだった。

調和性・・・大学時代も、部活で自分じゃなくても対立して言い争ったりするのが嫌でお互いが納得するような合意点を探ることが多かった。

【共感性】・・・人の表情や声などから気持ちを感じ取りやすく、そのおかげもあってか何でも話しやすいと言われたり、相談されることが多かった。頼られていることが嬉しく相談された時は120%で応えて自分と関わっている以上絶対この人に幸せになってほしいと思っていた。そうして話が終わったあとにその人が元気になったり、自信がついたり、何かに頑張ろうとなることが溜まらなく嬉しかった。

【最上思考】・・・ラクロスをやっていたときも弱点を克服するより自分の得意なプレー(長所)を伸ばすことに時間をかけていた。その結果最初はポジションがMF(ミットフィルダー)というオフェンスもディフェンスもやるポジションだったが、オフェンスが得意でディフェンスが苦手だった自分はディフェンスの練習ではなく、オフェンス専門のAT(アタック)というポジションに転向した。

【成長促進】・・・自然と人の長所を探していた。理由は人の長所を探している方が人生楽しかったから。人の欠点は見えてしまうときはあるけど、人の欠点を考えているときの心の状態がめちゃくちゃ嫌い。部活でもチームのメンバーが自信を持てるような言葉をいつもかけていたし、おまえには能力があるということをしつこいくらい言っていた。長所を見つけ伝えることでその人の気持ちが高揚して自信が付いて生き生きするようになったり、プレーが上手くなっていくのが嬉しかった。

【ポジティブ】・・・「池田はポジティブ」とかなり言われていた。自分の中にネガティブな感情が出てくることも普通にあったが、それを周りに出すことは一切なかった。ポジティブな発言をしている方が自分のメンタルの状態が良かったし、何よりポジティブな発言をしている方が楽しかった。それに自分がポジティブに生きていると周りが笑顔になることが多かった。自分がポジティブでいるとそれは周りに伝染すると思っていた。だからか「熱男」や「チームの太陽」と言われていた。

ストレングスファインダーを受けたが、じゃあ自分の強みを生かせるかつ自分の本当にやりたいことってなんだ?という疑問にぶつかった。


「GOAL-Bコーチング」「古川誠コーチ」との出会い


この頃には山宮さんのYouTubeも見ていて、そこであきおさんと山宮さんの動画から「コーチング」というものに興味を持った。

コーチングってそんなにすごいのか。

もしかしたらコーチングを受けたら自分のやりたいことが見つかって人生が変わるかもしれない。

直感でそう感じた。

思い立ったが吉日。
すぐGOAL-Bと検索してのホームページから申し込みをしようと思った。
そこで受けたいコーチを選択出来るとあり、まさかこちらから選ぶ制度だとは思っていなかったので誰に受けたら良いのか分からなかった。

そこで「note」を見ることにした。
最初は知っていたあきおさん、山宮さんのnoteを読んだ。
「なんつーーー生き様だ!!すごい!!」心からそう思った。

山宮さんのnoteを読んだ時点で同じ大学出身というのと、自分もずっとスポーツをやってきたので山宮さんから受けたいと思い、まずインスタのDMでメッセージを送った。

そしていざ申し込もうと申し込み画面に進んだら山宮さんは「現在クライアントの募集をしていません」となっていた。
クライアントの募集を再開するまで待つかとも思ったがすぐにコーチングを受けたい気持ち持ちがあった。

他のコーチの生き様のnoteを見ていなかったので全部見た。
コーチの方全員の生き様が本当にすごかった。
読んでいて心が熱くなり、食い入るように皆さんの生き様を読んだ。

その中で自分に稲妻が走りめちゃくちゃ刺さった生き様があった。

古川誠コーチの生き様である。

壮絶な生き様だった。でもその生き様が半端なくかっこよかった。

自分が憧れた『漢』の生き様がそこにはあった。

直接お会いしたことはないし生き様のnoteを見ただけだったが男が惚れる『漢』だと感じた。

この人のコーチングを受けたい。

そう思い古川誠コーチにコーチングを申し込んだ。

そしてオリエンテーションを受けた。
「すごい」の一言に尽きる。
画面越しでも伝わる熱量、話しているだけでワクワクが止まらない。

この人と一緒だったら本当に人生変わるかもしれない。

本気でそう思った。

オリエンテーションを終えて、コーチングを受けないという選択肢はなかった。
「よろしくお願いします!」と伝えた。

そして古川誠コーチによる認知科学に基づくコーチングを受け始め、
コーチングは、
周りからの目を気にせずに自分の感情に素直になって、本当にやりたいことをやっていい、「自分の人生を生きていい」と教えてくれた。

そして自分にしかない個性・才能があり、人生を変えることの出来る可能性が自分にはあることに気づかせてくれた。

コーチはそんな自分の可能性を心から信じてくれた。

「コーチング」というものが、「古川誠コーチ」という存在が、
自分の心に再び火を付けてくれた。

だからこそ本気で人生が変わり始めている。

一番は「生活リズム」が変わった。
自分が本当にやりたいことのために行動が変わり、時間を作るようになった。
毎日ワクワクが止まらない。
部活をやっていた頃のように熱い毎日を送っている。
Want toのすごさを体感している。

そして今さらに人生をぶち上げるために本気で行動をしている。


今後のビジョン



コーチングを受けて見つけた自分の歩みたい人生。
GOALの先の世界。
GOALは何なのか。

〈自分の歩みたい人生について〉
・目標(GOAL)に向かって行動し、毎日がワクワクして、生きていて楽しい、そんな熱い人生。
・同じ志を持った人達と仕事をする人生。
・自分と関わった人達が笑顔で幸せになっていて、そんな人達に囲まれた人生。
・ワイルドスピードやクローズのような一生涯の仲間を大切にする人生。
・誰かのために自分の命を燃やし、自分という存在がその人の人生の中で勇気や元気を持って前に進むきっかけとなり、人の役に立っている人生。
つまり

『関わる全ての人達が熱くなる人生』

これが自分の人生のテーマである。

〈ここでいう”熱い人生”とはどんな人生か〉
周りの目を気にせず、自分の感情に素直になり、自分にしかない才能や可能性を心から信じて、自分の本当にやりたいことに挑戦している。
そして本当にやりたいことに熱中しまくって、その人らしく胸を張って生きる人生である。


〈どのような関わり方をすることで人の人生を熱く出来るのか〉
自分自信が認知科学に基づくコーチングを受けたことで、本当にやりたいことが見つかり、GOALに向かって行動するようになり、人生が熱くなった。認知科学に基づくコーチングの可能性に魅了された。

自分がコーチングを受けて人生が変わったように、毎日ワクワクし、本当にやりたいことのために命を燃やして行動する、熱い人生に1人でも多くの人を自分の命を使って導きたい。

そのために認知科学に基づくコーチングを自分が提供して、コーチとして関わる。

その人の可能性を信じ、自分が持っている全リソースを持って、
その人が1人では向き合いきれないことに共に向き合い自分で自分を導くことが出来る状態まで持って行く。
「自分が挑戦をすることで、自らの心の火を燃やし、
自分の熱が誰かの挑戦を生み、その人の心の火を燃やす」


〈自分の目指すGOALの先にある世界〉
「池田直樹」という存在に出会い、「認知科学に基づくコーチング」を受けて人生が変わったという人が増えていき、結果自分の熱が原点となり、その熱がどんどん広がって、日本中に自分のやりたいことに挑戦して人生を熱くしている人があふれる。

世界からみて「日本人は挑戦する人間」だと言われる。

〈日本中に自分の熱を伝えるにはどうすればよいのか〉
「池田直樹」という存在に出会い、「認知科学に基づくコーチング」を受け人生変わりましたという人が日本中に溢れるようにするには、まず日本中に認知される必要がある。
だから認知科学に基づくコーチングを提供する対象を、サッカー日本代表などの組織や有名人など日本の業界のトップ層まで持って行く。

つまり今の自分の現状の外側のGOALは、

「日本のトップの業界の層に認知科学に基づくコーチングを提供して、池田直樹という存在と、認知科学に基づくコーチングを日本中へ広げていき、自分の熱を伝染させ日本中の人が自分の本当にやりたいことに挑戦する熱い人生にすること。」

あとは教育の世界にも認知科学に基づくコーチングを導入させたい。
というのも現在大学職員として就職担当なので学生の声を聞くと、やりたいことがないからとりあえず就職するという学生が多い。
自分は大学卒業してすぐ就職はしないで自分のやりたいことを見つけるためにいろんなことに挑戦しても良いと思っている。しかし大学側からしたら就職率を上げないといけないため立場上とりあえず就職しなさいと勧めなければならない。
自分はその現状にも違和感をいだいている。
コーチングが教育(小・中・高の義務教育にも)に導入されれば学生の時にたくさんの挑戦が出来、本当に自分のやりたいことを見つけて人生を熱くすることができるのではないかと思う。
そうすれば挑戦する若者が増え、日本のそして世界の温度が変わる。
そう信じている。

これが今の自分の今後のビジョンである。

古川誠コーチに、
コーチングは「人の人生を扱う仕事」。
すなわち「命」を扱うことと同じ。
だと教えて貰った。

GOAL-Bのコーチの方々は命を懸けてコーチングを提供してくれている。
その魂のコーチングを受けているからこそ、自分の魂はに火がついた。

「関わる全ての人達が熱くなる人生」にするために挑戦をし、
自分の全リソースを使い、自分のを命を懸けて、誰かの挑戦をつくる。

自分の感情に素直なって本当にやりたいことをやっていい。

他の誰のものでもない自分の人生を生きていい。

全ての人に可能性があるということ。

そして本当にやりたいことに熱中する人生は熱く、最高であるということ。

これを自分自身が挑戦をし続けて、体現していく。

まだまだ挑戦ははじまったばかり。
やり方なんてわからない。失敗もたくさんするかもしれない。
それでもやるしかない。やって、やって、やりまくる。
絶対に出来るから。その可能性が自分にはあるから。

『池田直樹』という人間の熱を日本中に伝染させ、関わる全ての人達の人生を熱くする。

僕も変わります。人生熱くしていきます。
だからあなたも変われます。人生もっと熱くなります。

俺ならできる!

あなたならできる!



最後まで読んでいただきありがとうございました!

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?