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イタリア人はなぜあんなに喋るのか


ストレス発散


彼らはよく喋る。一人でもぶつぶつ言っている。他人に話しかけるなんてことは日常茶飯事で、いつそのマイクがこちらにも向けられるか分からないから油断ならない。

良く話す理由の一つに、話をして発散をするということがある。苛立ちや不甲斐なさを身体の中に溜め込まず、口に出しす。「もう!」「なんで?」「あり得ない!」なんてことを毎日何十回と吐く。

意味合いとしてはこんな単語だが、実は隠語を良く使う。臀部、男性器… これ以上書くことは控えておくが、このように、あちらこにらで男女問わず発するから、聴いてきて気持ちのいいものではない。

夫は、なるべく言わないように躾けられてきたので言わないが、怒りや疲れがピークに達するとつい出てしまう。私はというと「言わない」。兄二人に囲まれて、男言葉を使いたい欲に引っ張られたこともあったが、そこを母は徹底してくれた。大人になっても、ラジオの仕事をしていたことから、普段から汚い言葉やマイナスな単語を言わないよう心がけてきた。

イタリアの女性たちや子どもたちが、この汚いと言葉を話していると、残念な気持ちになる。また、年配の前でこのような言葉を使うことは無礼に当たるので配慮が必要になる。実際、義母は絶対に使わないし、他の年配の発言もあまり聞いたことがない。


イタリア式電話の掛け方

家族への通話

よく話すイタリア人は、同じ屋根の下で暮らす家族であっても、一日に何度も電話をする。「どこ?なにしてるの?」「これからの予定は?」…
家で話していても、出先でまた話す。そして、気になったことや、何か言いたいことがあった時に再び電話をかける。

スーパーに行けば、誰かが電話している。街に行けば何十人に会うだろう。ポケットに両手を入れてイヤホンで話している姿を見てもおどろかなくなった。あと、バスの運転手もイヤホンで話しているのはどうかと思う。一般的な友だち家族を見てみると、仕事終わりや、習い事などが終わると、夫や妻にこれからの用事を説明して、家で合流することになる。

離れた家族にだってそうだ。朝電話して、夕方に電話して、どうだったのか、今日の用事が進んだのか、また明日の予定など聴く。そしておやすみと言って電話を切り、また翌朝電話する。

親目線だと、娘や息子から電話がかかってきて、アレしなさいよとか、学校の準備したのとか、あの人に偶然会ってよろしく言ってたよ。今度のクリスマスどうする?など、子どもを思う会話が続く。

離れていても身近に感じるし、半日連絡がなければ心配になるほど、よく連絡を取り合っている。でもその会話は、何十分にも及ばないから軽いのも特徴だ。


友だちへの連絡

若い子たちが連絡を取り合うのは想像ができるし、snsの繋がりで行動を把握することは容易になった。

では、年配者はどうしているか。

というと、彼らもsnsを巧みに使っている。イタリアでは、メッセージアプリのWhatsAppを利用する人がほとんど。「おはよう」や「良い週末を」という挨拶や季節の話題を毎日こりもせずに送信している。がしかし、ほとんどだが、テキストではなく、加工された写真や動画を送る。このようなものだ。

「美しい振る舞いは、心のこもった挨拶から始まる。良い火曜日を」と書いてある。


このような画像を、何人もの友だちに、毎日送信する。これをそのお年寄りたちは、みんなに送るから、同じような素材がわんさかグルグルしている。誰が作ったものか知らないが、もらっては流して、受けては送ってを繰り返している。これはこれで世界があるようだ。


親友の思わぬ発言

私は以前親友に、「次はあなたから電話かけてきて」と言われたことがある。これを彼氏に言ったことがあるのは、私だけではないだろう。まさかイタリア人で親友に言われたから驚いた。

そんなことを気にしていただなんて。

友だちであっても、彼女らは電話をするし、メッセージも送り合う。「元気?」「最近あったおもしろいこと?」なんて聴かれたり、聴いたり。連絡を途絶える事は、前回何か気に入らなかったのでは?という意味合いになることも。だから、週に一度は連絡を入れる。

実際、2週間前に会ったが、親友にまだ連絡していないから、今頃悶々としているかもしれない。この後、電話をかけてみよう。どんな反応が来るか。

実は、仲良かった友だちが、引っ越しをしてから、連絡を取らなくなってしまった。彼女の子どものベビージッターまでしていたのに、薄情な私。前回連絡取ったのは、彼女の夫がAppleで働いていて、パソコンの割引をしてくれるという約一年前のことだ。今更、何をきっかけに電話すればいいのだろう。でも、彼女と話しをしたいな。

日本人の会話不足

イタリア人がよく喋る一方で、日本人は言葉を飲み込み過ぎているとよく感じる。それを堪え過ぎて、堪忍袋の緒が切れた時が怖い。急に爆発させるなら、普段からオナラくらいにガス抜きをしていて欲しいと思う。話をして感情をぶつけることは、喧嘩ではない、意見交換だと思う。

家族間でもそうだろう。「分かってくれる」や「そう思ってるはず」は間違っていることも大いにあるし、思い込みも少なくない。何が食べたい?と質問しても、「何でもいい」と返事しがちだが、そこを選ぶ楽しさも味わってほしい。

イタリア人は、子どもの頃から選択することを喜びとしてきている。朝の服選び、朝ご飯の選択、どの公園へ行きたいか、夕飯に食べたいものなど。自分で決めることを習慣化しているので、意見がハッキリしていて気持ちがいい。

このように、意見や主張を持った人たちの中で暮らすと、自ずと自分も発言せねばと鍛えられる。黙っていては埋もれて、何にも考えていないバカに見えることさえある。だから、何か言わないと!という気持ちにさえかられる。日本人としては、言い訳しているように感じるが、それは感情を表現しているとも言える。

かつて、職場で外部の若者を交えてグループを作ったことがある。ある番組をみんなで作っていくというもの。仕事を見つけては、あらゆるパズルをみんなで組み立てていた。
その時、何かマイナスなことが起こると、彼らは、「覚えていません」「言われてません」なんてことを堂々と言っていた。これも小さな主張かもしれないが、昭和に生まれ平成を生きてきたおばさんからすると、そんな言い訳は聴きたくないと感じる。

イタリア人はならどうだろう。それだけは言わず、「なぜ覚えていなかったのか」「どうして言われていないと記憶しているのか」を説明してする。例えば、「その時、レポートを書くことに集中していたから…」や「あの時、コレをしてたことは覚えているけれど、ソレは記憶にない」など。前後の流れをくっつけて話をする。

すると、言われた方は、「そうだったのか…」と、相手を理解する余裕が少しうまれる。それでも納得いかなければ、どちらも主張して、解決策を見つける。言い争っているようにも見えるが、意見をぶつけているだけ。その後、円満に収まれば結果オーライとなり、言い合っていたことは彼方へ消える。


長くなり過ぎたので、この辺りでこの記事を閉じる。もっと私たち日本人は主張しても構わない。また逆に受け止め、切り替える能力も備えていきたい。出来事の後、snsで呟いている文章ではなく、その場で発する瞬発力も鍛えたい。その時、「列に割り込むな!」とキレるのではなく、「なぜ割り込むんですか?」と会話すればいい。相当な理由がなければお断りしても当然いい。陰湿な苛立ちやより、カラッとした対応をしてみるのも案外心地いいもの。ぜひ、イタリア人のようにしゃべって発散!

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