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最初にイタリアを訪れた日本人 〜1585年の記録〜


私には一つのプロジェクトがあります。

それは、「公式に訪れた最初の日本人」の調査です。


これは、日本の歴史の授業で習うんですが、

誰だか分かりますか?記憶していたらご立派!

私はというと、遠い彼方からの記憶を呼び起こすのが精一杯でした。

 
日本史上では、当然のことながら

日本からの目線でしか説明されていません。

これを逆から知りたい!つまり、当時
 
イタリア人は日本人を見て何を思ったのか

を探ってみたいのです。


なぜこんなことを思ったかというと、

私の住むリヴォルノという街が

最初の一歩となった港町からです。



最初の日本人たち

437年前にやってきた日本人は一人ではなく、

団体で船に乗ってやってきました。

何のために?わざわざイタリアに来るということは…


そう、宗教活動です。




カトリックの本拠地であるヴァチカンで

ローマ法皇を謁見
のためにやってきました。

その集団というのが、


天正遣欧少年使節

てんしょうけんおうしょうねんしせつ

伊東マンショ、千々石ミゲル、中浦ジュリアン、原マチルノ
14歳前後の若い青年たち4人が船に乗り、
長崎を出航しマカオ、インド、ポルトガルを経て、

1585年 イタリアはリヴォルノに到着。


※ この帆船はイメージです

簡単に船旅と言いましたが、

実は出発してから3年後のこと。

各地で滞在しながらイタリアへ入ってきました。

ピサやフィレンツェで大公に挨拶し、ローマ教皇に出会う。

さらには、ヴェネツィアやミラノなの主要な都市も巡ったようです。



どうしてこの街に入ってきたのか。

リヴォルノ港に突き出た要塞


なぜこの地が選ばれたかというと、

新たに作られた港町だったのです。

フィレンツェのメディチ家によって新興されました。

真新しい設備の整ったリヴォルノ港で出迎えるということが

最大限の歓迎だっと考えられます。


柔術師範の本当の顔

さて、連日お伝えしているように、

「柔術」の師範に会う機会がありました。

何年も前から知る、レストランに来るお客さんの一人だったんですが、

たまたま、柔術の日本語資料を翻訳してほしいと頼まれました。


で、ここからが本題です。


なんと、この師範、柔術を教えている方ではあるんですが、

実は二足の草鞋を履いていたんです。

師範としてはもう50何以上になるんだとか、

その傍でしていた仕事というのが、

ジャーナリスト」だったんです!



ラジオ制作出身で、今noteに毎日投稿している身分からすると、

近しい存在に驚きました。

師範は、チェルノブイリ原発や90年代のボスニア紛争など、

イタリア国内外で取材を行っていました。

現場の最前線に行っていただけでなく、地元にも目を向けています。

街の歴史や変動の軌跡を記録した本を出版していました。


話を切り出したら…止まらない


前世は日本人だったという師範は、日本を崇拝していることが伝わります。

ただの師範ではなく、日本の文化も気質も全てに対し特別意識を持っています。

ふと会話の流れで、「天正遣欧少年使節」の話を振ったところ、

とんでもない思い入れを持っていることが分かりました。

歴史を紐解き記事にしたこともあったようです。

さらには、師範営む道場内の食堂には、伊東マンショの自画像がありました。

この絵はレプリカですが、ヴェネツィアで描かれ

個人所有していたものを発見した経緯があります。

公に発表になり、2016年には日本でも公開されました。

それだけではないんです。道場の入り口には、巨大な門があるんですが、

そこに伊東マンショの自画像を元にした絵が書かれていまし。

道場に来ている子どもたちによって作られたそうです。

この門を見て、込み上げるものがありました。


リヴォルノでは特に気に止められていない日本との記録が、

実は、細々とここで語られていることに驚いたのです。

天正遣欧少年使節の成した功績や勇気ある行動が

437年経った今でも再認識されていることが

日本人として嬉しい。日本人に伝えたいと感じました。

師範が元ジャーナリストで、研究していたこと、そして出会えたこと

偶然という言葉では片付けられません。

必然だったのではないかと不意な出来事に

まだ一驚したままです。


さぁ、この出会いがどのように展開していくのか…

また報告いたします。

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