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衝撃!イタリア人はモナリザを知らない


世界的絵画

あなたは作品のタイトルを聴いて、いくつ絵を思い浮かべられるだろうか?

・ムンク 「叫び」
・ピカソ 「ゲルニカ」
・ゴッホ 「ひまわり」
・クリムト 「接吻」
・ボッティチェッリ 「ヴィーナスの誕生」
・ドラクロワ 「民衆を導く自由の女神」
・フェルメール 「真珠の耳飾りの少女」
・ダリ 「記憶の固執」
・ミレー 「落穂拾い」

おそらくどれも、簡単に思い浮かべられたに違いない。大人の嗜みとして知っておきたいと思うのは、日本特有の「常識人」を見せつける承認欲求からきているのだろうか。隣にいるイタリア人の夫は、半分も知らなくても堂々と自由に生きている。彼には他の優れた知識がたくさんある。


「モナリザ」を知らないとは

そんなイタリア人たちに「モナリザ」と聞いても知らないと答える人はいる。レオナルド・ダ・ヴィンチはイタリアなのに知らない。どういうことがというと、

イタリアでは「モナリザ」と呼ばない


別の名前で親しまれている。逆にその名前を知る日本人はかなり少ないと思う。美術に詳しい人やイタリアに関わる人意外いないのではないだろうか。
せっかくなので、レオナルド・ダ・ヴィンチについて少し掘り下げていこう。大人の雑学になるので、一席お付き合いいただきたい。



ダ・ヴィンチという男
 


ヴィンチ村のレオナルド

イタリア語を勉強して初めて知ったことがあった。9つの前置詞の活用の仕方は、何度も使って馴染んでいくのが手取り早い。その中の一つにこれがある。「da」ダは、場所を意味する言葉。「da te」ダ・テとなれば、あなたの所: 家となり、「da noi」ダ・ノーイは、私たちのところ: 我が家となる。また、出身地を表すこともあり、私は高松出身であるから、「Etsuko da Takamatsu」高松のエツコとなる。

ということで、
レオナルド・ダ・ヴィンチは「ヴィンチ村のレオナルドさん」という意味の名前である。

ちなみに私が通ったフィレンツェの語学学校の先生もレオナルドで、自己紹介の時に「レオナルド・ダ・フィレンツェ」と言っていた。


ダ・ヴィンチの生家訪問

フィレンツェから少し離れた街の丘の上にヴィンチ村はある。生誕地として観光客も訪れるようで、街は綺麗に整備され、ダ・ヴィンチ博物館や関連するオブジェが村を彩っている。

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さらに丘の上を目指して歩くと生家はある。

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「緑の道」と呼ばれるオリーブ畑の間を登っていく。ふと振り返るとさっきの村が見える。しばらく歩くこと約30分、生家にたどり着いた。

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レオナルドの生家と書かれている。その上には、「アンキャーノ」という文字。実は、レオナルドは、ヴィンチ村のさらに離れたアンキャーノ集落の出身だったというわけだ。ならば、レオナルド・ダ・アンキャーノじゃないかと思うが、父親の苗字から受け継がれた歴とした名前でる。


こちらが生家

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1452年4月15日レオナルドはここで生まれた。
農家だった母親の実家である。なぜ母親かと言うと、公証人をしていた父親の元で、奉公人として働いていたのが母。つまり、公に認められた子どもではなかったため、彼女は実家で産んだのだ。しかし彼らにとってレオナルドは最初の子どもであると記されている。後に父親は再婚を繰り返す。兄弟は21人もいたようだ。


567年も前の話を、なぜ最近起こったかのように残されているかというと、長年研究され続けてきた。この生家も、家族や親族のことも、村への届けや教会での登録、また手紙や日記に書かれていたことを、一つずつ紐解いて明らかになってきた。

生家とされるこの家も、あらゆる資料に基づいて特定された。後にレオナルドの家だと分かり、修復作業や改良を重ねて現代まで受け継いできた。2012年には美術館として要素を加えて、一般公開された。私はその直後に香川の後輩と訪問し、今でも二人で語らうほど思い出の地となっている。

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眼下にはオリーブ畑、丘の下に見える村々や遠くに見える山など、トスカーナらしいのどかな風景を一望できる。

ここで遥か彼方を目指して、夢を描いていたのかと想像した。非嫡出子であることを考えたら、ひっそりと暮らしていたのかもしれない。


若くして才覚を発揮


母親はレオナルドの父ではなく、他の男性と結婚し5人の子どもを授かった。その子どもたちと暮らしたり、祖父と済んだり、子どものいない親族の元で過ごしたりもしたとか。

フィレンツェのメディチ家に仕えていた、レオナルドの父親は、子どもの頃から特別な才能に気づき、才能を伸ばすべく支援をしていたとか。

17歳の頃、家族全員でフィレンツェに移り住んみ、その3年後には画家の会社で働き出していた。音楽家としての活動も行っていたようだ。

20代のレオナルドは、現在も世界中に点在する作品を作り上げてきた。作風は、すでに確立されレオナルドらしいタッチに気づく。

30代には、ミラノに拠点を移す。
40代では、最後の晩餐の壁画を描いた。

そして、51歳の時に描いたのが、「モナリザ」だ。かなり円熟した技術を身につけ、この作品を描いたことが伺える。


モナリザ理論は10以上


レオナルドが描いた「モナリザ」は、不思議な微笑だけでなく、人物についても謎に包まれている。未だ解明できておらず、理論ばかりが増えている。

その一つで、名前に関する有名な説を紹介しよう。
SKY TG24のサイトより

美術史家によると、フィレンツェ出身の貴族の貴族であるリザ・ゲラルディーニという、イタリアの高貴な商人であるフランチェスコ・デル・ジョコンドの妻を描いています。これが、この絵がモナリザと呼ばれる理由です。ただし、この作品はモナリザの名前でも知られています。この場合、「モナ」という言葉は「マドンナ」の意味で、現在は「レディ」と訳されています。

モナリザを表記する際、「Monna Lisa」となる。
正確に発音するなら、モンナ・リーザだ。

フィレンツェ出身としては、イタリア人っぽくない顔つきをしているように感じる。一方で、ボッティチェッリのヴィーナスに似た人は、あちこちで見かけるのにもかかわらずだ。


では、イタリアでなんと呼ばれているかというと、

「ジョコンダ」


夫の苗字、ジョコンドという名前の語尾を、イタリア語で女性名詞に使う"a" に変えて、ジョコンドの女性バージョン(妻)「ジョコンダ」と呼ばれている。

私は、イタリアに住んで9年経つが、モナリザと呼ばないことを今年に入って知った。それまで縁がなかった。もしくはピンときていなかったのかもしれない。


なぜルーブル美術館に?

1516年にアルプスを越えて移動したときにレオナルドダヴィンチ自身がそこに持ってきました。数か月後、この絵はトスカーナの天才によって当時のフランス国王フランソワ1世に売却されました。約4000の黄金のドゥカートのために。次の世紀に、モナリザはフランスの王族のコレクションの一部でした-ルイ4世がヴェルサイユ宮殿にそれをもたらしました-そしてフランス革命後にルーブル美術館に展示されました。したがって、モナリザがフランスにある理由はすべてここにあります。それは約500年前にフランスの王によって購入されました。


ジョコンダ盗難事件


最後に、この作品がルーブル美術館から盗まれた、歴史的話があることを伝えておく。この物語は、嘘のような本当の話で、映画の作品にでもなりそうだ。
詳しい内容な、かつてフィレンツェでお世話になった日本人がまとめているので、そちらを訪ねてもらいたい。私は何度も読み返しているが、毎回読み終えると誰かに言いたくなるほど高揚感がある。

お時間がある時にぜひ。


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