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証拠写真

人混みの向こうから見た「私」と微笑み交わすあの日あの時
(ひとごみの むこうからみた わたくしと ほほえみかわす あのひあのとき)

人が闇雲に写真を撮るようになったのはいつの頃からなのだろう。その昔、カメラはもちろん貴重品だったが、フィルムも安くはなかったし、現像もそこそこのコストだった。しかも、フィルムカメラの場合、思うような写真が撮れていたかどうかは現像してみないとわからなかった。だから、写真を撮るのはそれなりに真剣な行為で、素人でも、いや、素人だからこそ、あれこれ考えながらシャッターを切っていた、気がする。

初めて自分のカメラを手にしたのは、小学校の修学旅行の時だ。カッセト式のフィルムを使うポケットカメラだった。中学校の修学旅行には親の一眼レフを持って行った。なぜか高校生の時のことは覚えていない。写真好きの先生が多く、遠足や修学旅行で写真の撮影方法やカメラの操作についての蘊蓄とか、その人なりの工夫をいろいろ伺ったということは記憶にあるのだが、何を伺ったのかという肝心のところが抜けている。大学生の時、手軽に使えるコンパクトカメラを買って、社会人になってからもしばらくそれを使い続けていた。

初めてのデジタルカメラはキヤノンのIXYだった。シャッターを切ってから画像が記録されるまで微妙な間に違和感を覚えたのと、記録媒体であるコンパクトフラッシュが高価であることに、「デジタル」の限界を見た気がした。フィルムに比べて写真が不自然に見えることにも不満を覚えた。まさかカメラがデジタル一色になるとは、その頃は思いもしなかった。

たぶん、写真を撮るということが日常生活の中に浸透するのは、携帯電話にカメラ機能が搭載されるようになってからだ。カメラやその関連の「専門家」は機械としての精度や完成度、画像品質、「売れる」価格といった商品を提供する側の視点で物事を考える。現実は使う側の気軽さや楽しさ・面白さが普及を牽引した。気がつけばカメラメーカーは次々に姿を消し、フィルムメーカも然り、現像機メーカーや現像サービスも数少なくなった。しかし、手軽になるということは有り難みが薄くなることでもある。つまり、大事にしなくなるのである。写真はプリントしてアルバムに整理して何かの折に見返して、というようなことがなくなる。無造作に撮った映像はそのまま放置され、消去される。映像は生活の中のある瞬間だ。その一瞬が軽い時代になった。生活の中の瞬間が軽くなるということは、生活が軽くなることであり、人生が軽くなることでもある。無造作な行為は無造作な生そのものだ。生きることが軽い時代になったのか、そもそも生きることは軽いことだったのか。

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