ぶっ倒れた話

2月4日。
沖縄でのスケジュールをこなして、僕は徳之島にいた。夕方の飛行機で鹿児島に移動して、着いたら陸路で福岡へ、深夜に到着したら翌日は朝1便で石垣島へ。
今、書いてても頭悪すぎるタイトスケジュールなんだけど、この頃はこれが普通で、時々自分がどこにいるか分からなくなっていた。
もちろん、この日も夕方の移動までもパンパンに予定を組んでいて朝から現場に向かった。
昼休憩、缶コーヒーを取ろうとしたら缶が手からスルリと抜け落ちて、ものの1分で身体半分の感覚が無くなった。やばいくらい回らないロレツで救急車を呼んでもらった。
救急車の中は何だか騒然としていて。例えるならば、もしかしたら死ぬ人を運んでいる感じというのがしっくり来た。無線で「意識は朦朧としている」と伝えられた僕の頭は凄くはっきりしていて、明日のレンタカーのキャンセルや飛行機の手続き、仕事のスケジュールの組み替えでいっぱいだったし、今日に限ってピンクの可愛いパンツをチョイスしていた自分を死ぬ程悔やんでいた。
「ドクターヘリを!」みたいな話が聞こえてきたのは救急車に乗り込んで5分後位で、状況のヤバさと救急救命士のテンパり具合だけは伝わってきたけど、僕は死んだ方が良いくらいのアホなので、この様子を撮影してYouTubeに流したらバズるんじゃねーか?と救急車の中で携帯を触って死ぬ程怒られた。
病院につくと、明らかに寝不足の関西弁の看護師さんがいて、メチャクチャ気ダルそうにバイタルとか測ってくれた。
「これいつ帰れますか?」
と聞くと
「帰れる訳ないやん、脳出血やで。生きてるだけ良かったと思いー」
と冷たく言い放たれた。
離島医療はマジでヤバい。ホンマやで。
という訳で、僕は2月4日仕事中に脳出血で救急搬送された。誰もが死んだと思った搬送時。意外と死なず、ただし左半身はがっちり麻痺が残った。
1週間、両手を点滴で繋がれ、頭は30度の角度までしか起こす事は許されなかった。絶対安静というやつだ。何度も漏れ出した点滴で腕はパンパンに腫れて静脈炎を起こし、血圧を測るたびに腕が捥げる様な痛みに泣いた。
金玉はモロ出しで小便漏れ放題、ビシャビシャなベッドの上で優しさが1ミリも入っていないお粥を口に投げ込まれ。。。
とまぁ色々と試練はあったのだけど人間は本当に辛かった事は忘れる様に出来ているらしく、何度となく絶望感と虚無感を襲われた断片的な記憶しか無くなっているから不思議だ。
そんでもって命を救って頂いた病院関係者の方々には感謝はしている。。
というわけで
2週間に及ぶ絶対安静を経て僕の身体は本土の先進的な病院に輸送されて今に至る。
やべぇ、もはや予定調和どころじゃねぇ。
どこまでもハードヒットでドラマチックな展開に感情の起伏は追いつかないんだけれども、会社をクビになったあの日より全然健康的なのは、入院直後から携帯がブッ壊れる位にかかってきたお客様からの問い合わせとお見舞いの連絡で、僕は死にかけても尚、【必要とされている】事実に酔いしれる事が出来た。
どんだけ承認欲求激しいねんw
全く動かなくなった左手足よりも、もしかしたら二度と現場復帰出来ない恐怖よりも、自分が生きてきた半年を証明する、皆さんの言葉が愛おしかった。のは事実で
今、まさにメチャクチャ迷惑かけてるナウなのだけれど、「まぁ待っといて下さいな」って感じであんまり焦ってないのはリアルだ。これは不思議だけどマジや。ゴメンなさい。
よくよくベンチャー企業の胡散臭い社長は【命を賭ける】なんて言葉を簡単に吐くけれど、命を賭ける程の仕事なんて多分ないぜ。というのが僕の今の自論で、こういう事を簡単に言うやつは本当に頑張ってないので信用してはいけないw
どうでも良い話なんだけど
一生車椅子と言い放たれた僕は、3月14日現在
、誰の介助も受けずに二足歩行でトイレへ行っている。絶対動かないと言われた左手は空気を読まずに動き始めた。
人間の身体は不思議すぎるし、歩けない牛を歩かせる削蹄師という仕事の知識が今、死ぬほど自分を助けているというのは皮肉な事実だ。
さてさて、という訳で僕は3月末で病院を飛び出して5月には社会復帰する。
死にかけて尚、僕は離島と本土の致命的な格差を感じでしまったので何ともリアルな課題感を持って事業を展開する事になると思う。
勝ち負けに終止したら本質を見失うから、そこに優しく丁寧なアプローチと思いやりが加わったのはリアル怪我の功名で。
見返すとか、ぶっ殺すとかが動力になっていた僕の古めのエンジンは、感謝とか恩返しとかが動力のクリーンでハイブリッドな新品に積み替えた。
で。
こっから絶望的な状況に追い込まれた削蹄師が片手で世界を獲りにいく感動実話書くけど読む?
興味のある暇な方は次項へ。


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