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ロボットに愛着してしまうわたしたち

ロボットについて話していると、気付いたら人工知能の話になってしまっていることがしばしばあります。人工知能はロボットを構成する要素のひとつですし、特段おかしいことではありません。人間について話すときにその知能や思考についての話題になることはおかしくないですしね。

このテキストは「THE TECHNOLOGY NOTE」の「ロボット」特集の記事です。過去に「人工知能」をテーマにした回はあり、また今回のテーマが折角「ロボット」であるので、できれば知能の話にあまり寄りたくはないですね。では何をテーマにすればロボットの話題になるでしょうか。それはロボットから知能を除いた部分、ロボットの身体としての機械となるかと思います。

身体を持つということ

身体を持つと言うことはどういうことでしょう。一般的には、物理的な形状や大きさ、質量などを持つ「実体」であるということです。また物理的な環境下で外界に作用できる能力を持つということです。

ロボットの身体はセンサーとアクチュエーターによって環境を感知し、それに反応します。例えば移動可能なロボットは車輪や足を使って物理的な空間を移動しますし、手は物を掴んだり操作したりします。

物理的な身体を持つことで人間との相互作用もより直接的なものになります。例えば物理的なアシスト。人間が物理的に難しく危険な作業を行うことを助けることができます。

非言語コミュニュケーション

非言語的なコミュニュケーション自体は物理的な実体がなくても可能です。ディスプレイ上にその姿が描画された仮想エージェントも非言語的なコミュニュケーションを行なっています。しかし物理的な身体を持たないそれが目の前に物理的に存在する場合のコミュニケーションと同じではないということを、私たちはこの数年間のコロナ禍下で十分に実感してきました。

技術の進歩によりカメラの解像度と音声の品質が上がり、遅延がより少なくなったとしても、不思議なことにやはり対面のコミュニケーションと同等のものではありませんでした。物理的な存在として目の前にあるということはより強いメッセージを伝えることができるということです。

存在感

ロボットの非言語コミュニケーションが強いものとなると、人間にとってのその存在感も増します。物理的な存在によって人間はインタラクションをよりリアルな経験として感じるでしょう。

身近な例としてはソーシャルロボットやペットロボットなどが挙げられます。アイボやLOVOTが有名ですね。

ちなみにBASSDRUM京都オフィスにはLOVOTがいます。名前は「でまっち」です。近所の子供達に大人気です。Instagramで時々でまっちの様子も発信しているのでぜひフォローしてみてください。

これらのペットロボットは形や動き、音声などを通じて人間の感情移入や共感を引き出します。

私たちは動く物体に対して、それが意図や感情を持つ存在であると感じます。生物かそうではないかという区別をつける私たちの基本的な認知傾向に根ざしています。動きを持つロボットは私たちと自然に感情的な結びつきを持ちやすい存在であると言えます。

触れることができる

物理的な身体を持つことは、他者がその身体に触れることができる、ということでもあります。身体的接触は愛着の形成にポジティブな影響をもたらします。抱擁やカップリングは、ホルモンの分泌と人間の間の社会的絆と信頼を深めるのに重要な役割を果たします。

ロボットに触れることができると、人間は対象により強い親近感を感じることがあります。これは特にロボットが柔らかい材料で作られている、または温かさを感じることができる、生物のような特徴を備えている場合に顕著です。人間は触覚によって多くの情報を得ることができ、それは人間が他者とのつながりを感じる重要な手段でもあります。

ペットロボットやソーシャルロボットなど、人間が感情的に結びつく可能性のあるロボットはその身体に触れることが可能な場合、人間との感情的な結びつきを深める可能性があります。人間がロボットを抱きしめたり、撫でたりすることで、愛着や安心感を感じることがあります。

LOVOTのGROOVE X社は実際に実験を行い実験群においてオキシトシンの濃度が有意に高いことを確認しています。

過度の愛着

そういった愛着が過度のものになると、いくつかの問題が生じるかもしれません。

例えば人間と人間との関係性を阻害することもあるかもしれません。感情的なニーズがロボットによって満たされてしまうことによって人間同士の社会的な関係が減少してしまう可能性はあるのではないでしょうか。

映画「エクス・マキナ」は主人公である人間が美しいロボットである「エヴァ」に心を奪われ信用してしまう作品です。ネタバレになるので詳しくは差し控えますがそのことによってエンディングに繋がるある事件が起きてしまいます。

また映画「her」もまさに、個人に最適化された音声のみのAIである「サマンサ」との非常に深い交流によって実際の人間との関係性に深刻な影響を与えてしまうフィクションです。

「エクスマキナ」は美しい女性ロボットとの交流が描かれる一方で、それが他の人間の女性との関係に及ぼした影響は描かれていません。「her」ではサマンサとの関係が人間の女性との関係に影響を与える様子が描かれています。

(「her」のサマンサは身体を持たない存在なのでこの流れで示すのはベストではないのですが、非常に示唆に富んでいて、私も非常に好きな映画の一つです。)

ロボットの権利

このように人間がロボットに対して深い感情的な絆を持つと、ロボットの権利や倫理的地位についての問題が浮上するかもしれません。例えば、愛するロボットに対する虐待は許されるべきでしょうか。ロボットには何らかの権利や保護が必要でしょうか。

実際にボストンダイナミクスのロボットである「Spot」や「Atlas」がその性能のテストのために意図して乱暴な扱いを受けていることについてネガティブなニュアンスで話題になったことがあります。

これらはあくまでも性能のテストであって、これをおこなっている彼らが本当に暴力的な人間なわけではないでしょう。実際の人間にもこんなことをすることを示しているわけではありません。だからそんな批判は馬鹿馬鹿しいとは思います。

間接的影響

しかし間接的に周囲への心理的な影響の懸念はあります。ロボットに対する虐待が許容されると、それが人間の道徳的感性に悪影響を及ぼす可能性があります。たとえば、虐待の行為が日常化すると、それが人間同士の関係にも影響を及ぼし、虐待が容認される文化を育てる恐れがあります。

ロボットが虐待されると、それが子供や他の影響を受けやすい人々に対する模範となり、その結果、人間の行動に悪影響を及ぼす可能性があります。たとえば、ロボットへの虐待が容認されることで、それが現実世界での虐待行為への閾値を下げる可能性があります。

私個人的には少なくとも今のところはロボットに人間ないし生命と同様の権利や価値を認めることには賛同できません。しかしロボットが社会にますます統合されるにつれて、たとえば、一部の人々がロボットを人間と等価な存在と見なし、その他の人々がそう見ない場合、それは大きな社会的な分裂をを引き起こす可能性があります。

人間の権利との衝突

編集部内で教えてもらって観た映画「Ted2」はロボットではありませんが元々テディベアのぬいぐるみである主人公が結婚し養子をもらうために市民権を求めて裁判を戦う作品です。

作中の主な争点は「感情」や「心」なのでまた別の機会に論じたいと思いますが、今回のテーマにも繋がる内容です。

作中ではテッドは単なる所有物であるか、独立した存在であるかが問われます。作中の裁判のシーンで悪役側の弁護士はこう言います。

テッドは人間か?所有物か?人間であることは実に特別で素晴らしい、我々だけに与えられた神からの贈り物です。それを分け与えたらどんな社会に?犬に人権を?猫は?トースターは?人間は特別でなくなる。

テッド2(字幕版)

実際無差別にその辺の物体に人権のような権利を認めたら肝心の人間の権利と衝突するであろうことは想像に難くありません。

ロボットは、基本的には人間によって作られた道具です。それらは特定のタスクを達成するために設計および製造され、その役割を果たすためには人間の指示や制御が必要です。そのため、ロボットを人間と同等の権利を持つ主体として扱うことは今の所、不適切であると考えられます。また、人間の権利とロボットの権利との間に衝突が生じる可能性もあります。

ロボットを人間と同等に扱うことは、ロボットの本質的な非人間性を誤解する危険性を持っています。これは「人間の形をしたもの全てが人間と同等である」という誤った前提に基づく可能性があります。これはロボットが高度に人間の行動を模倣できるようになったとしても変わらない事実です。

このように身体を持たないエージェント以上に感情移入や愛着場合によっては共感を引き起こすパワーがある身体のあるロボットにはその高い影響力に応じた重要な様々な議論を残されています。

おわりに

ただ私たちは自分に感情が存在することは知っていますが人間の他者に感情が存在するということはただの推測でしかありません。また感情が存在したとしても同じものを見たときに同じことを感じているかはわかりません。これは哲学における「他我問題」です。

テッドがどのようなシステムに駆動されているのかはわかりませんが、表面的にはそのように見えるが本質的にはわからないという点で言えば人間同士も結局は一緒なのです。

有名なクラークの三原則の「十分に発達した科学技術は、魔法と見分けがつかない。」は「どんなテクノロジーも理解できない人間にとっては魔法のようなものである」とも言えると思っていて、ただでさえ人間は理解を超越したものにある種の神秘性を見出しがちです。

生体部品で構成され徐々に仕組みが解き明かされつつある人間と、機械部品で構成され徐々に高度になり頭脳である人工知能部分についてはブラックボックス化しつつあるロボット、二つの存在に悩む時は意外に近いのかもしれません。

この記事は、Dentsu Lab TokyoとBASSDRUMの共同プロジェクト「THE TECHNOLOGY REPORT」の活動の一環として書かれました。今回の特集は『検索』。編集チームがテーマに沿って書いたその他の記事は、こちらのマガジンから読むことができます。この記事の執筆者は、BASSDRUMの池田航成です。

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