【短編小説】青の約束
遠くから誰かの声が聞こえた気がして、一太郎は舟を漕ぐ手を止めた。こんなところに誰かいるはずがない。
朝焼けの広がる静かな海の上で、寄せては返す波に揺られていた。世界にたった一人だけのような静けさ。親に内緒で作った小さな小舟で、兄弟にも誰にも邪魔されずに過ごすこの時間が一太郎は好きだった。
夏が近づき夜明けが早くなったのが嬉しくて、今日は早く海に出た。
もう一度耳を澄ませるが何も聞こえない。気のせいだったろうか。
周囲をぐるりと見渡すと、浜辺から少し離れたところにある小さな島が見えた。いつも村の長老たちに言われることを思い出す。
〈あの島には神様が住んでおるのじゃ。簡単に近づいてはならぬ〉
村の人々は誰も近寄ろうとしない。月に一度のお礼参りのときにだけ、長老たちが島に参拝するだけだ。
いつもはただ通り過ぎるだけの島がどうしても気になって、一太郎は島に向かって舟を漕ぎ出した。
島に近づき、周囲に沿って漕いでみると、そこに小さな入り江があった。すぐ近くに洞窟があるのを見つけて、思いきって舟を進める。
薄暗い洞窟の中で、少女の声が響いていた。
きれいな若草色の着物を着た同じ年くらいの少女が、岩陰に腰かけて、水に足をつけたまま歌っている。
はじめて聞く歌だった。村で聞き慣れたわらべ歌のようで、見知らぬ国の言葉のようで、どこか切なく響いてくる。 心がぎゅっと掴まれて、ずっと耳を傾けていたい気持ちになったかと思えば、今すぐに走って逃げ出したいようにも感じる、不思議な調べ。
岩陰に差し込んでくる朝の光が水面を照らしている。歌いながら彼女が水に浸した足を動かすと、まるで大きな魚が水中で踊っているかのように見えた。
「・・・・・・だれかいるの?」
声をかけられて我に返った。呆けていた顔を叩いて憮然とした表情を作る。そのまま岩場の奥のほうへ舟を寄せて、声を張った。
「ここに立ち入るのは禁じられてる。祟りがあるぞ」
少女は目をぱちくりとさせている。
「あら、じゃああなたも祟りを受けるの?」
何かおもしろいものを見るようにして、一太郎の顔をまっすぐに見返してくる。
「いや、それは。今日はたまたま・・・・・・」
一太郎が焦っていると、少女はくすっと笑って
「大丈夫。わたし、神様に愛されてるから」
やけに自信ありげな様子で言う。
「ね、あなた名前は? わたしは佐江。あそこの村から来たの? 島のほうにはよく来るの?」
怪訝な顔をする一太郎をよそに嬉しそうな顔で質問を重ねてくる。同じくらいの年かと思ったが、中身はまるで子どもで、妹たちを見ているようだ。
そのとき洞窟の奥から「佐江や」と彼女を呼ぶ声がした。「いけない! わたしもう行かなくちゃ」
一太郎が声をかける間もなく、目の前でぱしゃんと波が立って、暗い洞窟の中に楽しそうな声が響いた。
「ばいばい、またね」
少女の姿はすっかり消えていて、一太郎はそこに小さな祠が祀られているのを見つけた。さっきの歌は神様へ捧げる歌なのかもしれないと思った。
舟を漕いで浜辺に戻り、一太郎はさっきまでいた島を眺めた。こんなに近いのに、近づくことが許されていない場所。
浜辺では村の男たちがその日の漁に出る準備をしていた。父親の姿を見つけて、一太郎も手伝いに入る。
「父ちゃん」
「イチか。今日も頑張るが、やはり今年も厳しいな。いつものような風が吹かん」
前の年から続く不漁によって、村はじわじわと打撃を受けていた。冬が明ける前から男たちは海へ出て、女たちは少しでも助けになるよう家で集まり内職にいそしんだ。
「オレも早く戦力になれるよう頑張るよ」
一太郎が胸を叩くと、「頼りにしてるぞ」と、ぐしゃっと父親に頭を撫でられた。
「ああ、今日の夕方は村の寄合に出てくるから遅くなる。母さんに伝えてくれ」
「わかった」
漁に出る父親を見送ろうとして、「あ、そうだ」と声をかけた。
「父ちゃん、あの島って誰か人が住んでるの?」
父親の顔が一瞬こわばったように見えたが、すぐに穏やかな表情で一太郎を見返した。
「いや、あそこは神様の島だ。人は誰もいない」
それから毎朝、一太郎は暗いうちから舟を漕いで島の洞窟へ行くようになった。
行く度、いつも佐江が洞窟の奥にある祠の岩場に座っていた。
「毎朝、ここでお祈りをしてるのよ」
そう言って佐江が歌う姿を見て、少しだけ佐江のおしゃべりに付き合って、人に見つからないように日が昇る前には村へ帰った。
なぜ父親はここに人はいないと嘘をついたのだろう。佐江はなぜここにいるのだろう。
知りたいのに、聞いてはいけないことのように思えて、切り出すことができなかった。
「わたしはね、いつも寝る前に、明日何しようって考えるのが好きなの」
「ふうん?」
楽しそうに話す佐江を見ながら、一太郎は代わり映えのしない自分の毎日を考えた。このまま何か特別なことが起きるわけでもなく、この村で父のように年をとっていくのだろう。
「毎日が同じことのくり返しでも、それでも明日が来るって思うとわくわくするの。最近はイチが来てくれるようになったから、ますます明日が楽しみになった」
躊躇のない佐江のまっすぐな視線に見つめられると、一太郎は動けなくなる。
「でも、わたしはこの島のことしか知らないから」
何気なくつぶやいた佐江の言葉を聞いて、思わず声が出た。
「・・・・・・明日、いつもより早くここに来れるか?」
翌日の早朝、一太郎は暗がりの中を浜辺からの道を荷車を引いて歩いていた。いつも父親が行商に行くために使っているのを拝借した。
ゆるやかな上り坂をゴロゴロと音を立てて進みながら、後ろを振り返って声をかける。
「おーい、生きてるか」
荷台に積んだ大きな籠がごそごそと動いて、中から佐江が小さな声で返事をした。
「だ、だいじょうぶ。だけど、こんなことして見つかったらどうしよう」
いつになく気弱な佐江の様子に、笑いがこみ上げてくる。「こんな時間に歩いてるやつなんて、オレたちくらいのもんだ。ほら、もう着くから」
荷車が止まって一太郎が籠から佐江を引き上げると、そこには小さな鳥居とそこから続く階段があった。
「ここ、上るから」
一太郎が手を差し出した。
「え? わたしが? むりむり! こんな長い階段上ったことない」
「うそだろ、ほら」
一太郎が佐江の手を掴んで歩き出す。
「ちょ、ちょっとちょっと。ほんとに無理なの!」
その勢いに佐江の足はもつれて、手をひかれた一太郎に覆い被さるようにしてその場に倒れ込んだ。
「おまえ、そんなに箱入りか・・・・・・」
そこから先は一太郎が佐江を負ぶって進んだ。長い階段を二人で一段ずつ上っていく。
最初は緊張していた佐江も、途中からは楽しくなってきたのか軽口を叩くまでになった。
「ほら、頑張って!」
「お前な、自分は乗っかるだけのくせして」
「ほらほら、あと少し!」
すべての階段を上りきったところの鳥居の前で、一太郎は佐江を下ろした。
「ん、ここで挨拶」
二人でおやしろに向かってお辞儀をする。
なかなか顔を上げない佐江を待ってから、一太郎は佐江の肩を掴んでぐるりと後ろを向かせた。
「見て」
佐江が振り返ると、そこにはどこまでも広がる海があった。水面に浮かぶ緑の島は美しく磨かれた石のように見えて、朝焼けに照らされた海と空がつながる景色は、紫に包まれてまるで別世界に思える。
「・・・・・・信じられない」
口を開けたまま、佐江は身動きがとれなかった。日が少しずつ昇っていって、海の色を変えていく。
「海ってこんなふうに見えるのね」
あたりがどんどん明るく照らされて、村のいつもの暮らしが始まっていく。
「わたし、こんな場所に生きてるのね」
佐江がぽつんと口にした言葉に泣いているかと思ったが、一太郎はただ横に立っていることしかできなかった。
すっかり日も昇り、帰ろうとしたとき、佐江が歌いはじめた。初めて会ったときに洞窟で聞いた歌。
「いつも祠に向かって歌ってるから、こんなに明るい場所で歌えるなんて思ってもみなかった」
佐江の美しい声が空に溶けていく。
「おれ、お前の歌をずっと聞いてたい」
一太郎が告げると、佐江はふふっと笑った。
昔から大人たちは言ったものだ。
「あの島全体がここらのお供えみたいなもんだ」
「わしらは何があっても、あの島を守らないかん」
そのことを一太郎はこれまで深く考えてこなかった。毎月の奉納も、季節ごとのお祭りも、村の中には当たり前に存在している風習であって、今さらそれにどんな意味があるかなんて問うこともなかった。
だから、父親が夏至の話をし始めたとき、何も不思議に思わなかった。
「やはりこのままじゃ厳しい。この前の話し合いで、今年の夏至は島で儀式をすることにした」
「儀式?」
「村に古くからある言い伝えだ。天災が起きてどうしようもなくなったとき、島の神様に願い事をする。神様が願い事を聞き届けてくれると、その年は豊漁になる」
「ふうん?」
「村全体で祈りを捧げる必要がある。誰もが夏至の三日前から家の中で静かに祈りを捧げねばならん。お前もしっかり準備しておけ」
いつになく真剣な面持ちで話す父親の様子に、一太郎も「わ、わかった」と答えた。
神様という存在がどういうものか、一太郎にはよくわからない。だけど、海のそばで暮らしていると、この世には自分には計り知れない大きな力が働いていることがよくわかる。それに立ち向かうために、先祖代々の人間たちが様々な工夫をして生を繋いできたことも。自分が生きるためにするべき役割があるなら、それを引き受けるのは当たり前のことだと思った。
夜にそっと家を抜け出して、島へ舟を漕いだ。
「しばらく外に出られないから、ここにも来れない」
佐江にそう伝えてから、はっとした。
「・・・・・・島の儀式がどんなものか、佐江は知ってる?」
佐江はしばらく黙っていたが、口を真一文字にしたまま静かに頷いた。
「それって、どんな」
一太郎が緊張して尋ねると、佐江はぎゅっと目をつぶって、そして一気に笑い出した。
「あははは、おかしい。あんまりまじめそうな空気を出すから、つい」
肩の力が抜けて一太郎も一緒に笑う。
「そんな重大な秘密みたいなこと、そうそうあるわけないでしょ」
よっぽどおかしかったのか、まだ佐江は笑い続けている。
「儀式がどんなか? もちろん知ってる。みんなで祈りを捧げるのよ。ご存じの通り、わたしはあの歌を歌います」
「それだけ?」
「それだけとは何よ。お祈りの力ってすごいんだから」
父親の様子と佐江の話しぶりの温度差に面食らいながら、思わずずっと聞いてみたかったことが口をついて出た。
「ねえ、佐江はなんで島に住んでるの。父ちゃんは島に人はいないって言ってた。なんで隠れてるの。外の世界に出たいとは思わないの」
矢継ぎ早に言い連ねて、すぐに後悔した。違う、本当に聞きたかったのはこんなことじゃない。
佐江の顔をまっすぐに見れずに、一太郎はうつむいたまま黙っていた。
「ねえ、イチ。顔を上げてよ」
そう言うと佐江は、一太郎の両手を掴んだ。
「え?」
一太郎が佐江のほうを向いた瞬間、佐江に引っぱられて、二人は水の中に落ちていた。
何が起きているのか理解できずに、ただ佐江に手を繋がれたまま水の中を沈んでいく。気がつくと二人のまわりを色とりどりの魚の群れが取り囲んでいた。魚たちに後押しされるように、今度は光のほうに向かって体が押し上げられていく。
やわらかな光に包まれて、不思議な気持ちになる。これは一体なんなんだ。
次に一太郎が目が覚ますと、いつもの洞窟とは違う岩場に横たえられていた。
「大丈夫?」
佐江が横から顔をのぞき込む。水に濡れていつもより大人びて見える。
「・・・・・・さっきのはいったい」
一太郎が言い切る前に、佐江が海に浸かった足をばしゃんと一太郎の前に引き上げた。月明かりのもと、薄暗い闇の中で、静かな光が二本の足ではなくヒレを照らしていた。
「これが本当のわたしの足。びっくりさせてごめんね」
佐江が少し照れながら言った。一太郎はそっと手を伸ばして、そのつややかなものに触れてみる。驚いたようで、でもずっと知っていたような気もして、なんて言えばいいのかわからず、一太郎は佐江を見つめた。
「こんなきれいなもん見たの、はじめてだ」
この島の子どもたちはね、たったひとつの昔話を聞いて育つの。
むかーしむかし、わたしのおばあちゃんのそのまたおばあちゃんの、とにかくずっと昔のご先祖様がここに住み始めたときの話。
ご先祖様たちは、ずいぶんと遠くからこの土地にたどり着いたそうよ。
この一族の人々には特殊な能力があったのね。それが、人の目について、元にいた場所では暮らせなくなったの。
疲れ果て、旅の途中で半分以下に減った一族の様子を見て、これ以上先へ進むことは諦めて、ここに住み着くことを決めたの。
島を抱える村の人たちは大いに悩んだでしょうね。得体の知れない一族が勝手に住み着いたのだから。
それでも、うまく力をあわせることができた。漁を手伝ったり、陸での生き方を教わったり、それぞれの得意なところを補いあえたの。
何代もそうして村の人々と島の人々は仲良く暮らしていた。自然に、村の人と島の人が結ばれて夫婦になることも増えてきた。
だけど、そうして生まれた子どもたちの中には、元々の能力が備わらない場合も出てくるの。中には、自分の子孫にその特殊能力を目当てにする人もいて、いつの間にか、村と島の関係は険悪になっていってしまった。
そしてあるとき、村の人が島の人を襲う事件が起きてしまう。もうこれ以上共存することはできないと話し合った人々は、一つの約束をして、離れることになったの。
島の人たちには、これ以上住むところを奪われないよう島での生活を、村の人たちには、海で何かあったときには海の神様の知恵を貸すことを、それぞれが保証すること。
わたしのご先祖様は村の人たちと約束をしたのよ。
この島で暮らすことを認める代わりに、何かあったら必ず村を守るって。
今でも村の人たちは約束を守り続けてくれてるわ。毎月欠かさずお礼参りに来てくれる。わたしの一族もずいぶんと数が減ったけど、この昔話を聞いて育つからには、わたしたちも約束を守るわ。
あなたたちが信じてる儀式は本物よ。
だから心配しないで。今年の夏は大漁になる。
「その特殊な能力って」
佐江の話を聞き終えて、一太郎は口を開いた。
「言ったでしょ。神様に愛されてるって。お願い事を聞いてもらえるの」
「それってつまり・・・・・・」
言いかけた一太郎を遮って、佐江が岩場の奥を指さした。
「ね、あそこ見える?」
「うん」
「儀式でつかう舟なのよ」
暗くてよく見えないが、大人一人が乗ったらいっぱいになるくらいの大きさしかない。
「小さいな。あんな舟じゃどこにも行けない」
「そうね、どこかに行くための舟じゃないから」
佐江は淡々とした調子で話を続ける。
「神様にお祈りをするとき、もうわたしたちに行き先を決めることはできないのよ。すべてお任せします。良いように進めてくださいってお願いするの」
佐江が何を言っているのかわからなくて、一太郎はただ聞くことしかできなかった。
「あなたと初めて会ったとき、神様からの贈り物だと思った。あの朝、海と島の景色を見せてくれてありがとう。わたしが守ってるものがもっと愛しくなった。
わたしの人生に意味なんてないと思ってたけど、そんなことなかった。ちゃんと意味はあったよ。あなたに出会えたから。
わたしは、もう迷わない」
佐江はまっすぐ一太郎の目を見て、そしてそっと頬に口づけをした。
一太郎が三日間を村で静かに過ごす間に、嵐がやってきた。季節外れの大嵐。儀式が行われるという日の夜、風が吹き荒れる中、家を出ようとしたら父親につかまった。
「お前に覚悟があるなら、連れて行ってやる」
一太郎は黙ったまま頷いた。
父親に連れられ島に渡り、はじめて船着き場から島に入った。
村の数名と入り江まで歩く。
入り江では、波打ち際の一部が縄で囲われ、儀式のための場所が用意されている。その中心には、あのとき佐江と見た舟が準備されていた。
白い装束を身にまとった村の長老たちが集まり、見たことのない巫女のような女性たちは島の者だろうか。
並んで静かに待っていると、そこに白い着物を着た佐江が老婆に手を引かれて現れた。
一太郎の姿を見つけて、一瞬目を見開いてから、また穏やかな表情に戻って儀式を始める。
「おい、これって」
「イチ、静かに」
横にいる父親が一太郎を諫めた。
急激に空が暗くなってきた。不穏な空気を察して、鳥たちがばさばさと四方八方に散っていく。
「なんだよ、それじゃまるで・・・・・・」
一太郎が佐江に近寄ろうとしたら、その腕を父親に掴まれた。
「イチ、ここまでだ」
父親の手を振り払って縄の先に進もうとしたら、その反動で逆に抱え込まれてしまう。
「離せよ!」
目の前、あと五歩先にある境界線。手を伸ばせば掴めそうな距離に、いつもと変わらない佐江がいる。
「言ったでしょ、海の神様にお願い事をしに行くの」
「だから、なんでお前が!」
佐江はじっと一太郎の目を見た。見たことのない強い眼差しだった。
「ばいばい、またね」
「佐江!」
白い装束の大人たちに手を引かれ、佐江が儀式のための舟に乗り込む。
風が吹き荒れ、雨の勢いはとどまることなく強まり続けていた。辺りはもう真っ暗になっている。
「やめろよ! 佐江! 行くな!」
一太郎がどれだけ叫んでも、その声は強風にかき消される。悔しくて涙が止まらない。動けない体のまま、視線の先で嵐の中の儀式が進んでいく。
「なんでだよ! なんでお前が犠牲にならなきゃいけない!」
一太郎は羽交い締めにされたままの体をなんとか動かそうとするが、父親の体は堅牢な砦のようにびくりともしない。
「父ちゃん、離せよ!」
朝の光の中で何度も聞いたあの歌声が、ごうごうと鳴る風の隙間から運ばれてくる。
(・・・・・・違う、お前の歌はこんな場所で聞くためのもんじゃない)
耳元で低い声が響いた。
「イチ、よく見ておけ。おれたち村のもんはこうやって生き延びてきた」
「・・・・・・なんだよ、それ!」
歌が終わり、佐江の乗った舟が波打ち際に運ばれていく。
すると風が止んで、雲の隙間から光が差してきた。舟はまぶしくて目をつぶりたくなるほどの光に照らされている。
静かに佐江が振り返った。
時が止まったように、他には何も聞こえない。
「ね、イチ。明日は何するの?」
佐江が微笑んだとき、突風が吹いて、一太郎は思わず目をつぶった。次に一太郎が目を開いたとき、あたりは暗闇に戻り、少女を乗せた舟はどこにもなく、ただ荒々しい波が入り江に打ち寄せるだけだった。
一太郎は海を見ながらつぶやいた。
「ばいばい、またね」
(2023/06、7,600字)
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