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岸田奈美さんから感じる「生」


ひょんなことで岸田奈美さんを知り、noteはもちろんTwitterもフォローしている私。

今日もボルボが外国語訳された話を読んだり、ルンバがスズメバチをたべた話、そして新幹線with槇原敬之をみて、寒いさむいとうずくまりながらも、

声をだしてわらってしまった。

なんだろう。

本人は日常をただ綴っているのかもしれないが、

凄くことばが生きている。その日常が生きている。

過去なのに過去のことじゃなくて、いつみてもその風景が今同時に起きているかのように鮮明にみえてくる。

わたしはそう受け取っている。

家族の話とかもちろん自分の経験って、なんだか感動ポルノにしたがる人多いんだけどそうじゃない。

なんていえばいいんだろう。

うわ、この人しっかり生きているな~。

この言葉が一番自分にはしっくりくる。

そう。生きてる。

何を当たり前なこといってんのか、と思われるかもしれないけど、わたしにとっての生きてるって、心臓が動いてるとか、生死がどうとか、そういうことだけじゃない。

その人の目の前の出来事、現実から目を背けないで「今ここ」にいる自分を意識して柔らかくも強く、ドンって構えていることだったりもする。

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大学の映画を英語でディスカッションする授業のときにみた、

「DEAD POETS SOCIETY」

日本語では「今をいきる」

日本語訳がどうして今を生きるなのか、ずっとモヤモヤしていたけど、わたしが岸田さんから感じた「生きている」という感覚とと似ている気がする。

彼らはその時をいきている。学校の大人からでも、家族という枠組みからでもなんでもなく、いまを。

だからみんなが待ち望んでいる展開でなくても、悲劇的でも

それは彼らの人生の1コマなんだから当たり前だ、と思うのだ。

人がひとらしくいきているってこういうことなんだろうな、

当時観た私の感想にもそう書いてあった。


それを、岸田さんの書く文章からも感じられる。

本人はそんなことを意識しながら書いているわけじゃないと思うけれど、そういうところが好きだな。

家に親が買ったらしい岸田さんの

「家族だから愛したんじゃなくて、愛したのが家族だった」

読んでみよう。

いけだ


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