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【連載小説】朝陽のむこうには ~サバトラ猫のノア~ 7〈全8話〉

僕はどうしてこの家族と離れてしまったのかな。


その話を誰もしない。


でも、みんなはかつての僕、カズヤのことを忘れてはいない。

リビングの壁には家族でキャンプに行った時の写真が飾ってある。写真を引きのばしてパネルにしたものだ。

大きな、すごく大きなパネル。

小学生だったカズヤとまだ小さかった弟、そしておとうさんとおかあさん。四人そろってこちらを見て笑っている。
部屋に余計な置物がない分、その大きなパネル写真は部屋の中ですごく存在感がある。


おかあさんは笑顔でいることが多い。
でも、僕の記憶にある笑顔とは少し違う。
弟は敏感にそのことを感じているのかも。

おかあさんだけじゃない。おとうさんが懸命に明るく振舞っているように思うのは気のせいかな。

それは僕のせい?
僕がいなくなったことでおかあさんたちに無理をさせているの?

僕の記憶はあいまいだ。


人間だった時の会話の内容は全く憶えていない。でも、はっきりと思い出せる映像はいっぱいある。匂いも憶えている。

だけど、僕がいなくなった時の記憶は一切ない。
病気だったのか、事故だったのか、考えたくないけど事件に巻き込まれたのかもしれない。
どうして思い出せないのかは分からない。

でも、もしその記憶が今の僕にあったら。
たくさんの後悔や未練の気持ちで、苦しくて悲しくておかしくなっていた気がする。
こうやって、かつての家族に会いになんて来られなかったと思う。

だから、この状態でいい。
おかあさんたちの前からいなくなってしまったことは、今さら考えたってしかたないから。

僕が今、できることをする。

僕は、おかあさんの以前のような笑顔が見たい。
三人には明るくて楽しくて希望いっぱいでいてほしい。

僕は毎日、二段ベッドの下段で弟と一緒に寝るようになった。
毎晩、弟はベッドの上でその日あったことを僕に話す。おかげで弟の考えていることや、弟の学校での様子が少しずつ分かってきた。

学校ではユウマくんとショウくんと仲が良くて、勉強はクラスで一番か二番の成績。英語の授業が一番好き。でもスポーツは苦手。
マンガは好きだけど、本や図鑑の方が好き。
同じクラスのミサキちゃんっていう、いつも本を読んでいる女の子が気になっている。

おとうさんとおかあさんの話をすることもある。
おとうさんは引っ越してから通勤時間が短くなった。帰りの時間が早くなって夕食はいつも一緒に食べている。
時々、庭に置かれたハンモックに寝転がってぼーっとしている。

おかあさんはずっと家にいるけど、最近は家の書斎で仕事をするようになった。時々打ち合わせだと言って出かけることもあるけど、弟が帰る時間には必ず家にいてくれるらしい。

おとうさんもおかあさんも、一年前にここに引っ越してからよく笑うようになった。でも、なんか無理して笑顔を作っているみたい。


弟は、ちゃんと見て、感じているんだ。 

僕はここに来てからはずっと家の中で過ごしている。昼間はほとんどおかあさんとふたりきり。

朝、おとうさんと弟が出かけた後、おかあさんはまず植物たちの手入れをする。家の中と庭の植物はすごい数だし、ひとつひとつ丁寧に水をあげて、観察しながら手入れをするのでとても時間がかかる。
それから食器を洗ったり掃除をしたり、洗濯機を回したり。

僕はこの家の生活にもすっかり慣れ、家中を自由に歩きまわり気ままに過ごしている。
でも、僕はできるだけおかあさんと同じ部屋にいるようにしているんだ。

「おかあさんのそばにできるだけいてあげてね。おかあさんが寂しくないようにするんだよ」
そう弟に頼まれた。

僕たちでおかあさんを守る、楽しませる。

ひと通り家事が終わると、おかあさんはコーヒーを淹れる。
コーヒーの香りが部屋の中に広がるのが合図。
おかあさんの休憩タイムだなと思う。

ソファの右側。おかあさんはいつも同じ場所に座るんだ。
そして、コーヒーを飲みながら窓の外に顔を向ける。顔を向けているけど、眺めているんじゃないと思う。
なにか、その先のものを見ているみたい。

寂しい思いをしている?
悲しくなっているの?

それに気づいてから、このコーヒータイムにはおかあさんのそばへ行くことに決めた。
おかあさんを楽しませるんだ!

今日は、ちょうどおかあさんから見やすい場所で毛繕いを始めた。
猫はね、体が柔らかいんだ。ほら、こんな格好もできるんだよ。

おかあさんがくすりと笑った。
「タイガ、すごい恰好だよ。もう、ある意味セクシー」
にこにこしている。
よかった。成功だ。

それから僕はソファに近づき飛び乗った。そして、おかあさんの横でくるりと丸くなる。
おかあさんが僕を優しくなでてくれる。

僕とおかあさんだけのまったりタイム。


おかあさんはしばらくソファで僕と過ごしてから、コーヒーの入ったマグカップを持って書斎に向かう。そしていつものチェアに座る。
お仕事の時間だ。

おかあさんはかつて研究所で働いていた。僕の記憶の中では、そこを訪ねた時に見た白衣を着たおかあさんの姿がある。仲間たちと楽しそうに笑顔でやりとりをしていたのも憶えている。

だけど今は家で仕事をしている。
おかあさんは研究所の仕事を辞めてしまったのかな。

弟が言っていた。
おかあさんはずっと仕事をしていなかった。でも、最近はお家で少しずつ仕事をするようになったんだと。

僕は想像してみる。

おかあさんの心の中には何個も時計がある。
呼吸をするようにずっと動き続ける時計もあれば、止まったままの時計もある。
時々動くけどいつもは止まっている時計も、止まったり動いたりを繰り返す時計もある。

仕事を再開したということは、止まっていた時計のひとつが動き出したってことだよね。

でも、無理に全部の時計を動かさなくてもいいと思う。必要な時に必要な時計を動かすだけでいいよね。

僕の願いは、おかあさんにかつてのように笑ってほしいってこと。大きく口を開けて顔全体で笑っていたあの笑顔が見たい。

そのために僕はなんだってするよ。


夜は弟と作戦会議をする。
弟は僕をベッドの上に乗せ、自分もうつぶせになってノートを広げる。
「算数のテストで百点を取る」
「新しいギャグを考える」
弟はそう言葉に出しながらノートに文字を書き込んでいく。

僕にはなにができるだろう。

リフティングはどうかな。
カズヤだった時、いっぱい練習をしたけど少年サッカークラブでは目標だったレギュラー選手になれなかった。でもリフティングは結構うまくできてたんだ。
猫になっちゃったけどできるんじゃないかな。でも、普通にやったら笑ってもらえない。おもしろくやらなくちゃいけない。
猫のおもしろいリフティング。どんなリフティングがいいかな。


おかあさんが掃除機を持って階段を上っていく姿が見えた。

チャンス!

おかあさんの後をついていく。
子供部屋のドアを開けた時、僕はするりとおかあさんの横を抜け部屋に入った。そして棚を足掛かりにベッドの上段に上がる。

「あら、タイガ」
おかあさんがこっちを見た。

僕は前足をサッカーボールの下にくぐらせた。えいっ。バン!ボールが顔に当たって転がっていく。まず前足にボールを乗せたいんだよね。追いかけてまた前足をくぐらせる。失敗。また前足をくぐらせる。

あっ。

ボールがベッドから飛び出て床に落ちてしまった。おかあさんはボールを拾い上げた。
「タイガが落っこちないようにね」
おかあさんが笑いながら言った。
ただ転がしているだけだし、これじゃリフティングなんて言えない。

やっぱり猫だからこそできることを考えなくちゃ。

そうだ、高いところか高いところへ次々とジャンプしていくってのはどうかな。まるで忍者のように。むささびのように。

ジャンプ、ジャンプ、ジャーンプ!
あー、失敗。
家じゅうを飛び回った。でも完ぺきとは言えない。いつも少し失敗をする。猫のくせに。自分にちょっとイライラした。
でも、何度もチャレンジした。

「タイガったら元気だねー」
おかあさんは微笑んでいるだけだった。でも、毎日繰り返していると少しずつ反応が変わってきた。

そしてある日。

「カズヤみたい」
自分の息子の名前を呟いた。

僕は「にゃあ」と応えた。

それから、おかあさんは僕の行動を以前よりも多く眺めるようになった。
僕はママ猫のミイに言われた通りのおっちょこちょいなので、しばしばおかあさんを笑わせることに成功した。

「タイガは私を楽しませようとしてくれているみたい」

その通りだよ!

「タイガを見ていると、カズヤが懸命にがんばっていたことを思い出すわ」
足元に近づくとおかあさんは僕の背中を優しくなでた。
「カズヤはおかあさんに似たのか、あんまり運動が得意じゃなくてね。あっ、大輝もそうだけど」
おかあさんは微笑んだ。
「失敗することも多かった。でも、カズヤはその度に成長していた。ずっと見ていたから知っている。――ずっと見ていたかった」
そして、おかあさんは目を閉じて自分の胸に手を当てた。
「カズヤのことは忘れたことはない」


その日からおかあさんは心の中を時々僕に話してくれるようになった。
おかあさんは弟が一生懸命いい子でいようとしているのを知っている。そして、おとうさんがとっても気を遣っていることも分かっていた。
「おとうさんは決して言わないけど、無理しているんだと思う。ふたりにはもう心配かけたくない」

おかあさんも、おとうさんも、弟も、それぞれがお互いのことを思っている。
これからのこと、未来はどうなるかは分からないけど、この思いがいい方向に向かわせてくれるよね、きっと。


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