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【連載小説】朝陽のむこうには ~サバトラ猫のノア~ 8 最終話〈全8話〉

ある日の午後。
おかあさんと弟は学校の行事があると言って出かけていた。
家の中には仕事が休みのおとうさんと僕だけ。

おとうさんはリビングの床に座って、僕のおなかやしっぽの付け根をなでたり、額のあたりを指でこちょこちょしたりする。

おとうさん、よく分かってる! 
そこは気持ちいいんだよ。

夕方はいつも弟が僕を独占しているから気づかなかったけど、おとうさんって猫好きなんだ。
「気持ちいいかー。そっかー。ここか? よしよし。いい子だー」
声もいつもより柔らかい。

今日のおとうさんは無邪気に僕との時間を楽しんでいるみたい。

しばらく遊んだ後、おとうさんは床の上で脚を前にのばし、僕を抱きかかえてひざの上に乗せた。
「タイガはいつも自由だなー。タイガを見ていると心が軽くなっていくよ」

それからおとうさんは仰向けに寝転んで、僕をお腹の上に移動させた。
おとうさんの呼吸に合わせてお腹が上下する。
おとうさんの匂い、温かさが伝わってくる。

「部屋の中も外も、緑でいっぱいだろ。おかあさんが森の中で過ごしているようにしたくてね。植物には癒しの効果がある。だから家を植物でいっぱいにしたんだ」

おかあさんのため。そうだったんだね。

「カズヤがいなくなって、おかあさんは心が疲れやすくなってしまったからね」
おとうさんはまた僕をひざの上に戻し、上半身を起こして僕の顔を両手で挟んだ。
僕はじっとしている。

「実はさ、俺もなんだ」


知ってるよ。

庭のハンモックの上で目を閉じているおとうさんを時々見かけることがある。そうやって気持ちのバランスを取っているんだって分かってる。

「胸の真ん中にさ」
おとうさんは自分の胸をこぶしでトントンとたたく。
「黒くて堅い塊がある。喪失感、後悔、悲しみ、怒り、迷い、無気力感、もうありとあらゆるものが固まったものがね。その塊はこれからも消えない」

おとうさんはふーっと深く長く息を吐いた。

「今だに、息をするのも苦しい時があるんだ。そんな時はため込まず正直に話す。それから、楽しいことがあれば声に出して笑う。泣きたい時は泣く。自然の流れに任せていく」

「そう、おかあさんと決めた」

それからおとうさんは僕の頭をそっとなでた。
「カズヤはどんな時も、常に心の中に存在している。カズヤは今でも家族の一員なんだ」


僕は見上げておとうさんの顔を見た。
おとうさんの目は濡れていた。


「引っ越して環境も変えた。一階の部屋は家具もなにもかもすべて一新した。思い出の品を飾るのも止めたよ。過去の思い出で埋め尽くした、止まった時間の中に居続けてはだめだと思ったんだ」

おとうさんは僕を優しくなで続けている。

「間違ってるかな? 冷たいのかな? 家族で前に進むためにそう決めたんだ。ねえタイガ、カズヤは分かってくれると思う?」
おとうさんは僕に問いかけた。

「にゃーっ」
それでいいと思うよ。

夫婦の寝室に写真が飾られているのを僕は知っている。

カズヤだけの写真。

忘れないようにしないといけない、なんて思わないで。
思い出すとつらくなることって、無理に考えなくてもいいんだと思う。

忘れられているようで悲しいなんて、僕はぜんぜん思わない。

楽しいことやおもしろいことがあった時は教えてほしい。おもしろいだろ、これって、心の中で思ってくれる。
それが一番かも。

そして、かつて一緒に楽しんだことをなにかのきっかけで思い出した時は、楽しい気持ちでいてほしい。

カズヤとの思い出、イコール、楽しい!って。

思い出の品をいっぱい残さなくてもいい。
家族揃っての写真、サッカーボールひとつ。

それだけで十分。


「聞いてくれてありがとな、タイガ」
おとうさんは僕を抱きかかえ顔を近づけた。

ある日の午後、いつもより随分早い時間におかあさんは買い物に出かけて行った。
そして、帰ってきてから脚立をリビングに運び込み、買い物袋の中から買ってきた電球を取り出している。切れてしまった天井照明の電球を取り替えるつもりらしい。

おとうさんが帰ってきてからやってもらったほうがいいんじゃないかな。
僕は心配で見ていた。
おかあさんっておっちょこちょいだもん。
先日も植栽の鉢につまずいて一鉢ひっくり返していた。

そうか、僕はおかあさん似なんだな。そう思っている矢先、おかあさんが脚立の一番上から足を踏み外した。

どすんと音がして、おかあさんが床に倒れ込んだ。

「いたたた。やっちゃった」
おかあさんは、そのまま動かない。

えっ、大丈夫なの?

おかあさんは目を閉じたまま。

どうすればいい? 

僕はおかあさんの周りをうろうろするばかりだ。かすかにすうすうと息をしている。

どうすればいい?

考えなくちゃ。考えるんだ。

そうだ!

僕はおかあさんから離れて、ダイニングの出窓に上った。通りかかる誰かに気づいてもらう作戦だ。

僕は出窓の上でくるくる回ったり、ジャンプしたりした。
すると、制服を着た二人の女の子が僕に気づいた。

「見てー。猫が踊ってる」
「ほんと、かわいー。猫ダンス!」
立ち止まって、二人で笑いながらこちらを見ている。

こっち来て! こっち来て!

僕は窓ガラスをカリカリと爪で掻き続けた。
「なあに? どうしたの? にゃんこさん」
女の子たちは窓に近寄ってきて、外側から僕の近くの窓ガラスをコツコツとたたいた。

「あれ? ねえ! 見て! 誰か倒れる!」
「え? あっ! 大変じゃん!」

ひとりが窓のそばから走り去った。すぐに玄関のベルと、どんどんとドアを叩く音がした。

その音でもおかあさんは動かない。
おかあさん、起きて! 起きてよ!
出窓の上で僕は何度も呼びかけた。

外で女の子たちがやりとりをする声が聞こえる。その後、窓の外に残っていた女の子も駆け出して行った。

しばらくしてサイレンの音がした。

              ・・・・・・

 「ただいまー」


玄関ドアの鍵が開く音の後、おかあさんの声がした。
おかあさんが退院して、家に帰ってきた。

僕はリビングでおかあさんたちの帰りを待っていたけど、我慢できずに廊下まで出ていった。
弟はおかあさんにくっついて歩いている。よく分かるよ。僕もそうしたい気持ちだもん。

おかあさんは僕を見つけるなり近づいて僕の前でかがみこんだ。
「タイガ、ありがとう。タイガが助けてくれたんだってね」
そして僕の頭をなでた。

「タイガのおかげだよ」
弟も、弟分である僕の功績に自慢げだ。

「それにしても、何度も言うけど、おかあさん、気をつけないと」
おとうさんのちょっと厳しい声。
「はい、ごめんなさい」
おかあさんはまじめな顔でしおらしく頭を下げた。


おかあさんは無事に帰ってきた。

あの時僕はおかあさんが気を失ったんだと思った。でも実は違っていた。

睡眠不足で寝てしまったらしい。

「落ちて倒れた時、痛いって。で、痛みが治まるまでじっとしようと。そうしていたらね、床の上が気持ちよくて、そのまま寝ちゃったの」
ということだった。

数日間、おかあさんは仕事で睡眠不足だったらしい。転倒したその日は完全に徹夜をしていたんだって。
明け方に仕事が完成し、研究所にメールを送った日の午後に脚立から落ちてしまったということだった。

もう、本当に心配したんだから。

おかあさんは念のため病院で一泊して、今日帰ってきたのだ。

おかあさんはおとうさんと弟に改めて「ごめんなさい」と謝った後、ソファに座って弟を手招きした。

「おとうさんには話していたけど、大輝にも話しておくね」
弟はこくりと頷いて、おかあさんの横に座った。おとうさんも近くにあったスツールに腰かけた。

「仕事を辞めてからも研究所のみんながいつでも戻ってきていいよって、時折メールを送ってくれていたの。何年も経っているのに。まずは自宅でできる仕事でもしてみたらって。そんな仲間との繋がりが私にチャンスと勇気をくれた。少しずつ仕事をもらうようになった。今回ね、新しいプロジェクトのチームに参加させてもらえて、つい張り切っちゃった」

それから弟の顔をのぞき込んだ。
「これからは、心配かけないようにする」
そう言って弟のひざに手を乗せた。

「寝ている間にね、カズヤと大輝が夢に出てきたよ。同い年くらいに見えた。その二人がね、手を繋いで、すごく楽しそうに笑いながら『おかあさん!』って呼んでくれた」

それからおかあさんは可笑しそうに笑った。

「目が覚めたら、目の前におとうさんの顔がすごーく近くにあって。目覚めた私を見て『よかったー』って大きな声だしてね。本当に温かい気持ちになった。ああ、いつも家族四人が一緒なんだって感じた」

瞳が明るくて、顔いっぱいの笑顔。
おかあさんのその笑顔が見られて、僕はうれしい。


それから数日後のこと。

僕は出窓の上で、前足にあごを乗せてぼんやりと外を眺めていた。
この時間、ここにいるといつもの女の子たちが通りかかる。そして、手を振ったり声をかけたりしてくれる。
おかあさんが倒れた時、救急車を呼んでくれた女の子たちだ。もうすっかり顔なじみなんだ。

そろそろ通る時間かな。そう思っているとおかあさんが近づいてきた。

「タイガ、飼い主さんが見つかったって」

おかあさんはちょっと悲しそうな顔をして僕の背中をなでた。


「本当の名前は、ノアなのね」

そう、僕の名前はノア。

「随分遠くから来てくれたんだ」
おかあさんは僕を抱き上げた。

「寂しくなる、本当に」
僕をぎゅっと抱きしめてから僕の顔をじっと見つめた。

「ありがとね、タイガ。もう平気だから。安心してね」
目を潤ませている。

でも、すごく、すごーく素敵な笑顔だ。

僕の大好きなおかあさんの、大きな笑顔。

この笑顔を、僕は決して忘れない。


弟は学校から帰ってきて飼い主が見つかった話を聞き、わんわんと泣いた。泣き止んだ後もベソをかきながら「タイガ、タイガ」と名前を呼び、僕をなでて、抱きしめて、そしてまたこみ上げてきたのかリビングの床に突っ伏して号泣した。

おとうさんともお別れのあいさつをしたかったんだけど、弟は僕から離れなかった。
その夜、弟は僕を抱いたまま、涙でぐしょぐしょになった顔で眠ってしまった。



僕はいなくなってないよ。

ずっと繋がっているよ。

元気でね。またいつかどこかで会うよ。

きっと、絶対にね。

思う気持ち、思われている気持ちは、同じ時間を生きていなくてもずっと続いているんだと思う。
だって、僕には今でもおかあさんたちのカズヤへの気持ちが届く。
おかあさんたちにもカズヤからの気持ちが届いているでしょ? 

そうやってずっと繋がり続けているんだ。

そして、僕にはかえでさんたちの気持ちも届いている。
ふと、かえでさんを思い出す時がある。
そんな時、かえでさんと繋がっているんだと実感するんだ。


翌日、牧場のトラックでパパさんとかえでさんが迎えにきた。

「ノアー、もー、なに冒険しちゃってるのー、心配したんだからー」
「無事でよかった」

かえでさん、パパさん、勝手なことをしてごめんなさい。

「ノア、会いたかったよー」
かえでさんは泣いていた。
かえでさんは僕を抱き上げて、痛いくらい頬ずりをした。

かえでさんたちはすごく心配してくれていたんだと改めて思った。かえでさんたち親子も僕の家族だ。そして、牧場のみんなも僕の大切な家族。
みんなに会いたい。

ママ猫のミイやきょうだい猫のトムともっといろんな話をしたい。
まずは僕のこの旅の話を聞いてもらおう。

カズヤだった僕もかつてのノアも、一生懸命頑張るけどいつもうまくいかなくて諦めてばかりだった。自分で考えたことを行動に移すなんてしたことがなかった。

でも今は違う。

牧場を出て、危ないことも不安で動けないこともあった。周りにいろいろと助けてもらったけど、自分でちゃんと考えて進む方向やその時やるべきことを決めた。

獲物の捕獲だってできるようになったし、何でも話せるガーフィという親友もできた。


カズヤの気持ちを持ったまま、猫として生きている意味はまだ分からない。

いつか分かるかもしれないし、分からないままかも。
でも、そうやって考え続けるのも、いいんじゃないかな。

考え続けること、それは誰かのためでなく僕自身のためなんじゃないかと思う。

いずれにしても、僕は進むしかない。
僕には可能性がいっぱいある。

まあ、ゆっくり気ままに、というのが基本だけどね。


僕は今、すごく満ち足りている。

       ― END ―


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