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特別養子縁組で赤ちゃんを迎え、父になるまでの長い長い道のりのお話

僕たち夫婦は、2019年1月に、特別養子縁組で生後5日の男の子を授かりました。僕が46歳、奥さんが44歳のときです。

僕が特別養子縁組を決断するためには、「血のつながった実子を諦めること」と、「血のつながらない子を一生愛し続ける」という2つの覚悟を同時に行う必要がありました。

それは、とてつもなく大きく、腰が引けてしまうもので、決断するまで、たぶん10年近くは悩んだと思います。

そんな(情けない)僕が特別養子縁組を決意し、そして今日(息子も1歳7ヶ月になりました)を迎えるまで、何を思い、生きてきたのかについてまとめてみます。

誰もが思い描く「普通の」ライフストーリー

多くの人は、頭の中に「何歳になったらXX、何歳になったらYY」というライフストーリーを持っています。

僕にも、20代で独立、30歳くらいで結婚、32歳くらいで第一子ができ、40歳くらいまでには3人のパパになって、その頃には一戸建てを建てて都心から移住し、仕事も趣味も子育ても楽しむ、という漠然としたライフストーリーがありました。

予定どおり、29歳でマーケティングコンサルタントとして独立し、30歳(奥さんは28歳)で結婚。しばらくは夫婦ふたりで生活を楽しみたいけど、避妊はせず、できたらできたで、そこから子育てをスタートすればいいよね、くらいのゆるい感じで結婚生活がスタートしました。

しかし、2年経ってもコウノトリはやってきません。

2回めの結婚記念日までに妊娠しなかったら、不妊検査をしよう。夫婦でそう決めていました。

そして、ちょうどその頃、奥さんのお父さんががんの宣告を受けていたこともあり、「早く孫の顔を見せてあげなきゃ!」という焦りから、産婦人科の不妊外来に行くことにしました。

いくつかの検査はしたものの、「特段異常なし」ということで、お決まりのタイミング療法からスタートすることに。

2度の流産

タイミング療法を2年続けましたが、残念ながら妊娠はしませんでした。産婦人科の不妊外来に限界を感じ、不妊専門のクリニックへ転院します。

産婦人科の婦人外来の待合室は、当然妊婦さんがたくさんいるし、赤ちゃんの声も聞こえてくる。こちらは授かりたいのに授かれない。そんな環境もしんどかったです。

すぐさま人工授精が始まりました。

比較的すぐに1度目の妊娠をしましたが、胎嚢が確認できず、流産。

結果は残念なものでしたが、「僕たち夫婦でも妊娠できるんだ!」と一筋の光が差し込みました。

体外受精にステップアップしてから1年くらいして、2度めの妊娠。でも、2回めも流産になってしまいました。

このとき、不妊だけでなく、不育症の疑いがある、と告げられました。

※上記のOGP(サムネ画像)は、体外受精の「顕微授精」です(顕微授精しない体外受精の方が一般的です)

2度めの流産の後、奥さんから「養子ってどう思う?」と、初めて切り出されました。

そのときの僕にとっての養子のイメージは、海外のセレブや日本の歌舞伎役者がやっているようなイメージしか持っておらず、突然だったこともあり、「いや~いまは考えられないなあ~…」とはぐらかすことで精一杯でした。

養子は、「自分とはまったく違う、遠い世界で生きている誰か」が行うことで、ぜんぜん自分ゴト化できないものだったのです。

悲しいお産

この頃、奥さんは身も心もボロボロになっていましたが、夫婦の子どもを授かりたい一心で、辛い不妊治療を続けてくれ、翌年、3度目の妊娠をしました。

不妊治療を開始してから6年が経っていました。

不育症の治療のため、奥さんは妊娠がわかってから毎日2回、お腹に(血液をサラサラにする)ヘパリンの注射を自分で打たなければなりません。

お腹はボコボコに黄色く腫れ上がり、何もできない自分は申し訳ない気持ちでいっぱいでした。

しかし、その甲斐もあり、今回は胎嚢が見え、心音も確認でき、赤ちゃんはお腹の中ですくすく育っていきました。

妊娠6ヶ月が過ぎ、安定期に入ったため、無理のない範囲で外出することも増えました。

行く先々で、「あら!妊娠しているのね。おめでたいわぁ~♡」や「お腹ナデナデさせて~!」と祝福の嵐。

「赤ちゃんというのは、生まれてくる前からこんなにも多くの人に幸せをおすそ分けしているのか…!」と、長かった不妊治療がようやく終わりを告げることに安堵と喜びを感じていました。

しかし、妊娠7ヶ月に入ったとき、突然動かなくなり、病院で死亡が確認されました。

前の週に、お腹の中の赤ちゃんが動かなくなったことに不安を感じた奥さんが、定期検診前に病院に行って検診を受け、異常なしと告げられた矢先のことでした。

月曜日の午前中、管理スタッフが会議室に飛び込んできて、「池田さん、奥さんの病院から至急の電話がかかってきています」と告げられたときのことを、いまでも鮮明に覚えています。

病院に着いたとき、奥さんは泣きじゃくりながら「ごめんなさい、ごめんなさい」と繰り返していて、僕は「大丈夫だよ、大丈夫だよ」と言ってあげることしかできませんでした。

この頃になると、赤ちゃんは(手術ではなく)通常の分娩と同じように産んであげるしかありません。

赤ちゃんはすでに亡くなってしまっているため、1日も早く産んであげないと、母体にも負担がかかるということで、すぐさま大きな病院に行って出産準備をしなければなりません。

記憶が定かではありませんが、奥さんを支え、病院に行き、入院手続きをして、一度家に帰り、いろいろな支度をして、また病院に行きました。

翌日、悲しいお産が始まりました。

陣痛促進剤が効き始め、奥さんが苦しそうにいきんでいます。

この苦しさの果てに、元気な赤ちゃんが産まれてきてくれるのなら、苦しむ意味もあるのでしょう。

でも、お腹の子は、すでに亡くなってしまっているのです。

産まれてきても、オギャーと泣けない子。家族になって、一緒にいろいろな場所に行き、素晴らしい人生を送ることを見届けてあげることができない子。

この世にはたくさんの色や香り、おいしい食べものがたくさんあって、海があって、山があって、そして素晴らしい人たちが生きている。

そんなすばらしい世界に、生を持つことができなかった子。

そんなかわいそうな子を産み落とそうと苦しむ奥さんの声は、痛みではなく、悲しい悲鳴のようでした。

保冷剤で冷たくなった赤ちゃんと3人、病室で一緒に過ごしました。そして、退院してから火葬場で小さな骨を拾い、出産準備が進んでいた冷たい家に帰り、2人でいつまでもわんわん泣きました。

いつか撲滅運動、始まる

死産は、僕たち夫婦に深い傷を残しました。しばらくは、再起不能な生活を送っていた気がします。

しかし、しばらくして、奥さんはチャレンジを始めます。

いままでは妊活マラソンのせいで、ちょっと先の予定すら決められない生活を送っていましたが、「もう先延ばしはやめよう」と、いままでやりたかったけれどできなかったことにトライし始めたのです。

不妊ピア・カウンセラーの資格を取得し、乳児院のボランティアを始め、2年後には「コウノトリこころの相談室」を開設しました(その後、不妊カウンセラーと家族相談士の資格まで取得)。

それから、夫婦2人の「いつか撲滅運動」が始まり、ダムが決壊したように趣味に没頭しました。

続いて、「家族構成が決まらないと家の間取りも決められない」と先延ばしにしてきた鎌倉への移住も決定。

「もう、いつかはやめよう」と、子ども部屋の無い、広い1LDKの設計で家を建てました。

「不妊治療のおわり」が近づいてきていました。

先延ばしに次ぐ先延ばし

4月4日は「よ~しの日」として、特別養子縁組の大きなイベントが毎年開催されています。

このキャンペーンは「ハッピーゆりかごプロジェクト」と題して、社会的養護の啓発を目的に、2013年に始まったものです。

奥さんに「行ってみない?」と誘われたものの、「来年行くよ…」と先延ばし。翌年、また誘われたんですが、そのときも(覚えてないですが)「来年行くよ…」と答えたらしいのです。

さすがの奥さんも、「それ、去年も聞いたよ…」と。

断りきれず(本音としてはしぶしぶ)参加することにしました。

行ってみれば、上映された映画『うまれる』を観て感動のあまり泣いてしまったし、豪華ゲストの講演もとても参考になるものでした。

でも、僕の感想は相変わらず「社会的養護の意味や制度の理解は深まったし、その必要性は感じる。でも、予期せぬ妊娠で生まれる子や親と暮らせない子を「うち」が引き取って、親として育てるか、となると話は別。血のつながらない子を愛せる自信はまだないし、いますぐ決断はできない」と、相変わらず煮え切らない回答をするばかりなのでした。

子宮全摘を経て

この頃、奥さんの子宮腺筋症がかなりひどくなっていて、生理のたびに、1週間、動けないほどの痛みをともなうようになっていました。

長い間、強い投薬をともなう不妊治療を続けてきたつけがたまってしまったのです。

投薬を続けながら治療をするか、全摘するか。夫婦で会議を行った結果、「全摘が妥当」という結論に達し、年末に入院することになります。

手術が終わり、麻酔から覚めた奥さんから、病室で手紙を渡されました。

そこには、「これで自分は子どもを100%産めない身体になってしまったけれど、育てたい気持ちは変わらない。養子を考えたい」と書かれていました。

いままでは、「産むこと」と「育てること」がセットだったけれど、子宮を全摘して産めない身体になった。でも、自分の中には歴然と「育てたい」という強い気持ちが残っている。「産む」という選択肢がなくなったことで、「育てたい」という気持ちが別に存在することに気づいた。であるならば、「育てること」を諦めたくないと。

長い不妊治療のなか、奥さんからは、たびたび特別養子縁組について相談されていました。

そのたびに、僕は「血のつながらない子を愛せる自信がない」「もう少し不妊治療を頑張ろう」とはぐらかしてきました。

でも、それから長い年月が経ち、28歳で結婚した奥さんも42歳になっていました。

不安はまだある。後戻りできないからこそ、怖い。

結論を出すときが近づいてきていました。

自分が愛する人の「夢」

少し話は変わります。

僕は自己啓発が大好きです。

20代の頃から、たくさん本を読んだり、資格取得をしたり、キャリアアップのために転職をして、自身の自己実現を進めてきました。

30代になってからは、トライバルメディアハウスを創業し、寝食を忘れて仕事に没頭しました。

やればやるだけ成果が出たので、楽しくて仕方がありませんでした。

40歳を過ぎてからは(いつか撲滅運動の一環で)やりたかったサーフィンを始め、念願だったワーゲンバスを買い、キャンプ、登山、鎌倉への移住、DIY、SUP、ロードバイクと、趣味の楽しさにも目覚めました。

夢を目標に変換し、その都度、全力で取り組み、目標を実現してきた自負があります。

でも、奥さんはどうだったのか。

僕が自己実現を果たしてきた結婚14年間のかたわら、奥さんは、不妊治療を優先し、仕事もやめ、長く苦しい孤独な生活を送ってきていたのでした。

今度は、奥さんが幸せになる番だ。

そう思いました。

養子を迎える準備に入ることを決断

僕たち夫婦は、特別養子縁組の話を進める決断をしました。

そうとなれば、善は急げです。

まず、行政(児童相談所)に行き、情報収集を行いました。しかし、行政の進める手順は、多くの研修を受講しなければならず、仕事の都合などで受講できない回があると、半年後、一年後の講座を待たなければなりませんでした。

また、養子を望む(多くは不妊治療を経た)夫婦は多いのに、親と暮らせない子はほぼ(乳児院や児童養護施設などの)施設に入るため、養子に出せる子はいないという状況でした。

養子を迎える意志を固めるまで長い時間がかかってしまった私たち夫婦には、長い間、待っている時間はありませんでした。

そこから、民間の養子縁組あっせん団体の選定に切り替え、検討を開始しました。

民間の養子縁組あっせん団体は複数あり、それぞれ特徴があります。私たち夫婦は、自分たちが大切にしたいポイントを明確にし、それに合った団体の説明会兼研修会に参加することにしました。

そこでは、その団体であっせんを受けた実際のご家族が、お子さんと一緒に、複数組(パネラーとして)参加してくださっており、当時の悩みや葛藤を等身大でお伺いでき、とても参考になるものでした。

特別養子縁組の目的は社会的養護

僕もこれらの研修会を通して学んだことですが、養子や里親の制度は、子どもがほしい夫婦やカップルのために存在している制度ではありません。

予期せぬ妊娠で産まれてくる子や、親と暮らせない子が、新しい家庭で育つことを推進するための「子どものための制度」です。

そのため、養親希望者(特別養子縁組を望む夫婦やカップル)に、年齢や性別、子どもの健康状態などを選択する権利はありません。

頭ではわかっていても、これらすべてに納得し、承諾書にサインするときは、相当な覚悟が必要でした。

手続きは大変ですが、団体が手厚くサポートしてくれます

家庭裁判所、児童相談所、あっせん団体、区役所など、様々な書類を提出したり、家庭訪問を受けたり、煩雑な手続きがありますが、その都度、あっせん団体が手厚くサポートしてくださったため、特段、難しく感じたり、不安になることはありませんでした。

ただ、特別養子縁組は、産んでくださる実親さんから、養親へ戸籍が移るとてつもなく大きな手続きです。

そのため、数多くの審査があったり、ちゃんと育てることができるのか、確認をされます。

でも、それは当然のことです。

大切な命を授かり、一生かけて、育て上げるのです。必要な労力はいとわない心の準備は必要です。

特別養子縁組、普通養子縁組、里親制度の違いはこちらをご覧ください。

養子と里親の違い

血のつながらない子を愛せるのか

将来、この子が犯罪を起こしてしまったとき、「自分の愛情のかけ方が足りなかったからだ」「自分の育て方が悪かったのだ」ではなく、「自分と血がつながっていないからだ」と、血や遺伝のせいにしてしまうのではないか。

他責が大嫌いな自分が、究極の他責に陥ってしまうのではないか…。それが、僕の中にある最も強い恐怖でした。

しかし、その悩みは、赤ちゃんが我が家にやってきたその日に消えてなくなっていました。

「血のつながらないこの子を愛し続けることができるのか」と考えたことは一度もありませんし、「かわいいけど、この子とは血がつながってないんだよな」と、ふと感じたことも、一度もありません。

そのくらい普通に、家族になっていました。

たとえ血がつながっていたとしても、日々、悲しいニュースが目に飛び込んできます。

血のつながりがあるかどうかではなく、一日いちにち、お互いがどう向き合い、大切な時間を過ごすのか。家族に必要なものは、とてもシンプルなのかもしれません。

自分の大切なものを継承できる喜び

僕はいま、スタッフが150人ほどの会社を経営しています。

僕は、この会社を未来永劫続き、世の中を良くし続ける継続企業(ゴーイングコンサーン)にしたいと思っています。

企業は「社会の公器」と言われます。

人間の人生は80年かそこらですが、会社が社会の公器として継続的に社会に貢献することができていれば、会社は未来永劫、存続することができます。

僕は、この会社に(多くの人が我が子に対して感じる)血の継承のようなものを感じているのだと思います。

僕の名前なんて残らなくていい。創業社長のことも忘れてもらって構わない。でも、自分が大切に育んだ会社のDNAや文化は、できる限り長く残り、この世を良くし続けていってもらいたい。本気でそう考えています。

そのため(いますぐではないですが)、僕の最後の大仕事は、事業継承です。次の経営陣を育て、一緒に並走し、任せる。いつかキッチリやりきりたいと思っています。

仕事ではそう考えているのに、僕たち夫婦には子どもがいませんでした。

自分が大切にしてきた思想や哲学、努力をすること、仕事を通して社会をより良くすること、人生楽しむこと。

そして、すべての想いを込めて建てた家、DIYでつくったピザ窯やブランコ、大好きなワーゲンバス、大切にしているキャンプ道具、サーフボードも、自分の老化とともに、いつか処分しなければならない日が来る。

自分が大切にしてきた想いも、物も、すべてのものがいらなくなる。捨てなきゃならない日が来る。

それは、とてつもなく怖いことでした。

でも、いまは、赤ちゃんから息子に成長しつつある子どもがいます。自分が大切にしてきたことを、息子に伝えることができる。血はつながっていなくても、自分の(生き方としての)DNAを渡せる相手がいる。

これから、サーフィンも、キャンプも、山登りも、自転車も、たくさんのことを一緒にやっていきたい。DIYの極意も教えてやりたい。キャンピングカーを借りて、北海道を一周したい。

生きる上で大切にしてほしい考え方や価値観、社会の役に立つこと、自己啓発の仕方、キャリアのつくり方、起業や経営、彼の興味がおもむくまま、いろんなことを授けてやりたい。

夫婦2人の生活もとても楽しかったけれど、息子との生活は、確実に未来へつながっているのでした。

想定FAQ

特別養子縁組を検討する方に多い質問に答えておきます。ご参考まで。

Q. 年齢制限はありますか?

子どもが成人を迎えるまで安定した経済状態を保てるか、ということから、45歳までが望ましいとされているようです。でも、45歳を超えた方でも迎えている方はいらっしゃいますので、行政や団体に相談してみてください。

Q. お金はかかるのですか?

かかります。でも、民間の養子縁組あっせん団体でも、実親さんの入院・出産費用、団体の方の人件費相当額という印象です。

Q. 子どもの性別や健康状態は選択できるのですか?

できません。先にも述べましたが、特別養子縁組は「子どもの福祉」が目的ですから、養親希望者側に選択権はないのです。

Q. 子どもに真実告知はするのですか?

以前は、子どもが年頃になったとき「話がある。そこに座れ。実はお前は…」ということが多かったようですが、近年では国連「子どもの権利条約」にのっとり、小さい頃から「養子であること」「実親さんがいること」「自分たちは養親であること」を包み隠さず、ちゃんと話してあげる「子どもの出自を知る権利」が尊重されています。

そのため、我が家でも(まだ言葉はわかっていないでしょうけれど)日常生活の中で「産んでくれたお母さんとお父さんがいるんだよ」と話していますし、将来、自分のルーツが知りたくなったら、実親さんに会うサポートを積極的にしてあげたいと思っています。

※「子どものルーツと実親との関係」は厚生労働省のこちらが参考になります

10年前に比べると、特別養子縁組に関連する情報が増えてきたとはいえ、まだまだ年間成立約624組(2018年)というマイナーな制度です。

僕にわかることであればお答えしますので、気軽にコメント欄にお寄せください。

特別養子縁組が「新しい普通」になることを願って

このたび、特別養子縁組という制度をもっとたくさんの人に知ってもらい、子どもにも、実親さんにも、養親希望の皆さんにも、偏見のない、一般的な制度になってほしいという願いを込め、奥さんと共著(僕は巻末の「夫コラム」を書いただけですが)で本を書きました。

不妊に悩む夫婦は、いまや5.5組に1組と言われます。

「不妊」とは、妊娠を望む健康な男女が避妊をしないで性交をしているにもかかわらず、一定期間妊娠しないものをいいます。 日本産科婦人科学会では、この「一定期間」について「1年というのが一般的である」と定義しています。※出典:不妊症|公益社団法人 日本産科婦人科学会

核家族化、女性の高学歴化と社会進出、それにともなう晩婚化と晩産化の進展。

2015年の厚生労働省統計情報部「人口動態統計」によると、日本人の平均初婚年齢は、夫が31.1歳、妻が29.4歳で、5年前の2010年と比べると、夫も妻も0.6歳プラスになっています。

第1子出生時の母親の平均年齢は30.7歳(平均初婚年齢と出生順位別母の平均年齢の年次推移(内閣府「平成29年度版少子化社会対策白書」)。1980年と比較して、それぞれ約4歳上昇しました。 かつてなら、高齢出産と言われた年齢で1人目を産んでいるわけです。

最近では、卵子や精子の老化早発閉経(40歳前に月経の永久的な停止が起こること。 卵巣が卵子を放出(排卵)しなくなり、ホルモンを分泌する能力が衰えるために起こるとされています)という言葉も、耳にすることが多くなりました。

男女ともに、間違いなく、赤ちゃんを授かりにくい社会構造になってきています。

一方、35歳の体外受精による出生率は17.2%、40歳では8.3%と低くなり、代わりに流産率は上昇していきます。医療が進んでも、妊娠適齢期は昔と変わらずリミットがあるのです(「体外受精で子どもが生まれる割合」日本産婦人科学会 2013年調べ)。

これからも、不妊に悩むカップルは確実に増え、それにともない、特別養子縁組を考える夫婦も増えるでしょう。

また、愛するパートナーと一緒に子育てがしたいと考えるLGBTQ+の人たちも少なくありません。

海外では同性カップルが養子を迎えることが珍しくありませんが、残念ながら、日本ではまだ認められていないようです。

同性結婚を認めた国では、ほとんどの国が養子を認めています。このうち米国ではレズビアンカップルの3組のうち1組が、ゲイカップルの5分の1が、オランダでは同性カップルの9%が、デンマークでも6分の1の同性婚カップルが子どもを育てています。※出典:NPO法人EMA日本

2017年に、大阪市で、男性カップルが里親認定されたニュースがありました。

特別養子縁組ではなく、戸籍が移らない里親とはいえ、こういう新しい動きが出てくることは素晴らしいことだと思います。

「養子を迎えた」と伝えると、多くの人が驚きます。年間、たったの624件(2018年)ですから、無理もありません。

多くの方は祝福してくれますが、「大きくなったら(真実告知は)どうするの?」「いじめを受けたら…」「苦労するのでは?」など、親切に心配してくれる人も、まだまだ少なくありません。

僕は、予期せぬ妊娠をした実親さんにも、不妊治療で悩む夫婦にも、LGBTQ+の人たちにも、そして何より産まれてくる子どもや親と暮らせない子のためにも、特別養子縁組が「新しい普通」になってほしいと願っています。

いまはまだ珍しいけれど、恥ずかしいことではない、おかしいことではない、変なことではない。

産まれてくる子どもや親と暮らせない子が、大人になるまで、そして、大人になってからも、偏見に悩まされることなく、ひとりの人間として誇らしく生きていける社会にしたい。

この本は、そんな想いから、奥さんと一緒に書いた本です。興味がある方は、ぜひ手にとってみてください。

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