わからないものを、わからないまま知覚する

昨年から、美術館(主に現代美術館)や企画展に通い始めた。

「感性上げるために通ってるの?意識高くね?(笑)」なんて友人に言われるほど、もともと僕はそういったものに興味がなかった。特に現代美術なんて、「これ何描いてんの?意味わかんない」「俺でも描けそう」くらいの感想しか出なかった。


なぜ美術館に通い始めたのか

そんな「わかりやすいもの」ばかりを好み、世の中の全てに説明を求める僕だったが、ここ一年くらいで価値観の転換が起こり始めた。

多分『具体と抽象』を読んだあたりからだったと思う。

具体のレベルでしか世の中が見えていないから、自分は抽象画(現代美術)を楽しめないのではないか」といった仮説が浮かび上がってきたのだ。

通い始めた最初の頃は、絵に描かれている抽象画を見て、描かれている絵自体に意味を求めるのではなく、「作者は何を伝えたくて、この絵を描いたのか」を考えようと試みた。

それだけでも十分、これまではなんの興味もそそられなかった抽象画(現代美術)を楽しめるようにはなった。

しかし、この段階の僕はまだ、意味を求めていた。「絵自体に意味を求める」ところから、「絵が描かれた背景(理由)に意味を求める」というシフトを行ったに過ぎなかったのだ。


このことに気付かされたのはつい昨日。きっかけをくれた作品は
『シン・エヴァンゲリオン劇場版:||』だ。


「なんだかよくわからないけど、すごいモノ」の価値

ここでは内容について書くことはしないが、とにかく最高だった。

後半三十分ほど、僕はずっと涙を流していた。

でも、なぜ自分が涙を流しているのか、その理由は今も言語化できない


見た人ならわかると思うが、一度見ただけで映画の内容を全て理解することは不可能だと感じられる。それだけの情報量が複雑に詰め込まれているのだ。(今度もう一度見に行ってきます)

にも関わらず、僕は泣いていた。完璧に理解することはできなくとも、何か凄いことが目の前で起きている。その実感だけがあった。

しかし、皆が僕と同じ感想を持った訳ではなかったようだ。
長いな〜」「途中からよく分からなくてついて行けなかった」
隣で見ていたカップルの感想である。


やはり現代ニッポンでは「わかりやすいこと」が良いとされており、その範囲が『作品』にまで拡張されていることに気付かされた。

たとえば、僕が好きな漫画・アニメ作品に『HUNTER×HUNTER』という作品がある。

この作品では、「念能力」というモノについて、詳細な設定がある。それによって読者は、念能力というものを、より理解した状態になれる。そして作品を深く理解することができる。つまり、抽象から具体に近づいていく。

一方、エヴァに関しては、詳細が説明されていない部分も多い。初めて聞く単語が急に飛び出してきたりするから、具体レベルで見ている視聴者は、その時点でギブアップしてしまうのかもしれない。

それでも、「理解できる」「理解できない」の間で絶妙なバランスを取れているのが、エヴァンゲリオンの凄みだと改めて感じた。


「わからないものを理解しようとする」プロセスに意味はあるのか

「わからないものを理解しようとする」ことは非常に重要なことだ。そうしなければ人は、アウトプットできない。

この過程で何が起きているのか。それは「翻訳」である。

たとえば、「黒髪の少女」という単語をあなたが読むとする。今あなたの頭の中に浮かんだその映像は、あなただけのものである。

つまり、同じ文章や映像を見ても、それを理解する過程で必ず「翻訳」が起きていて、自然とバイアスがかかる。

ここで何が言いたいかというと、「純粋に物事を捉えることは極めて難しい」ということだ。

理解しようとせず、どれだけバイアスをかけずに作品を楽しむか。これは神の所業に近い。だからこそ、挑戦してみる価値はあるし、評価されるべきではないだろうか。


まとめ

ここまで読んで頂き有難う御座いました。結論です。

・「なんだかよく分からないけど、すごいモノ」の価値は、わかりやすいものが蔓延る現代に置いて、これからもっと上がってくると思う

・わからないものを「理解」しようと躍起になるより、わからないものを「わからないまま」味わう方が、そのモノの「本質」を味わうことができるのではないか

自分の中では結構な気づきだったので、これからも意識して生きたいと思います!

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