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俳句を読む (2021/2/16)

今回は、俳句の話。季語とか主体のことを考えてみた。
長くなる。俳句はおもしろかった。

前半は好きな句についてだらだら語り、後半から小考のような形をとるので、てきとうなところから読んでくれればと思う。

たまたま家の本棚に高浦銘子という俳人の句集『水を聴く』と『水の記憶』があったので読んだのだが、俳句というものをちゃんと読むのは初めてだった。ちなみどうやら親の本なので、僕が好んで選んだわけではない。

まず『水を聴く』から好きな句を引いてみた。こちらが第一句集らしい。

はなびらの漂ふてゐる川の幅/高浦銘子

はなびら→川幅という視線の広がり方、意外性は短歌のコードでもけっこう楽しめる。こういう句は短歌脳でもいけそうだ。

うしろから風吹いてくる夕桜/同

木の後ろなのか私の後ろなのか。語順的には風が来て、そのあと桜に視線が行くので、なんとなく風によって視線を上げて、そこに桜。というイメージだが、どうだろうか。「夕桜」が季語ということになろうが、詩語の持つ豊かさにゆったりと包まれる感じ。この美しさも分かる気がする。

ちなみに、句集の紙面の俳句は、歌集における短歌一首より若干短めくらいの長さに、ゆったりと字が配置されている。このゆったり感によって半ば強制的にのんびり読むことになる。短歌よりも短い分、一音に対する通過速度は遅くなる。それに身をゆだねるとなんとも気持ちいい。その遅さを利用して読み手は語の持つイメージをしっかりとふくらますだけの余裕を得る。ネットだと伝わらないけど。いや……やってみるか。

人 声 は と ほ く 落 花 は 激 し か り / 同

字間、まさにこんな感じ。
「とほく」からする声の描写によって、むしろ私と花の周囲の静けさが伝わってくる。木と二人きりで向き合っている印象。春の一瞬の空気感がなんとも魅力的。

白 芙 蓉 吹 か る ゝ 母 の い る 景 色 / 同 

母ではなく、母のいる景色を眺める。その距離感がいい。少し離れて歩いているのだろうか。大切な人に対するまなざしという感じがする。

川の音桜は冬芽そだてつつ/同

面倒なので一字あけ終わり。川音は、昼も夜も、というか川がそこにある限り永遠に鳴っているだろう。その脇で静かに膨らんでいく冬芽。人の捉える感覚よりもはるかに長い時の流れを、この短さで表現できるのだからすごい。

極月の海に触れたる右手かな/同

極月とは12月の事。言ってしまえばただ海にちょっと手を濡らしただけなのだが、「極月の海」とすることで、それに触れた右手が異様な存在感を放っている。日常語から外れた、いわば詩語の力が存分に発揮されている。また、「右」という具体性によってほんとに触れた感じも出ているように思う。ほんとにすごくいいなこれは。

退職の日の蟷螂の低くとぶ/同

分かる!って思ってしまった。カマキリの飛行を見たことがある人は分かると思うが、彼らはハエとかチョウとは違い、高いところは飛ばない。地面すれすれをしらしらしら……と寂しげな音を立てて滑空するイメージだ。上品でもあり、もの悲しくもある。蟷螂の飛行を描写することで、私がうつむきながら歩いていることが伝わってくる。この少し前に「結婚」と詞書された句があるので、これは寿退社だと想像される。別れと、今後の生活への不安もあるのか、そういう気分も受け取れてしまう。

とまあこんな感じで、短歌好きの僕でも読める(気がする)句が意外と多い。ただ、第二句集『水の記憶』に進んで、だんだん「はて?」となってきた。俳句自体は読み慣れてきたのもあって、すごく面白い。ただ、「短歌読み」とは違う、特有の面白みがあるような気がしてきた。普段短歌を読んでいるときには感じない、不思議な気持ちよさ。妙な開放感みたいなものがある。

実はここからが本題。

その気持ちよさがどこから来るのか考えてみると、おそらく俳句は、ある種の普遍性を持っているのではないか、ということに思い当たる。しばしば短歌が「他でない私の声」であるのに対して、高浦銘子の俳句(特に第二句集『水の記憶』において)には「だれのものでもなく、だれのものでもある声」のような印象を受けるのである。誰にも紐付けされず、言葉が宙に浮かんでいる感じだ。その普遍性がどこから来るのかというと、俳句の持っている以下の二つの傾向が要因にあるのではないだろうか。

①透明な主体
②季語の性質(公共性・循環性)

まず「①透明な主体」について考えてみよう。
透明な主体というのは、主体がどんな人なのか見えてこない、という意味で言っている(もうちょっといい言い方がありそうなものだが)。この要因としては今のところ「俳句が17音という短い詩型だから」以外の理由をまだ思いついていない。ここからは第二句集『水の記憶』の句を見てみる。たとえばこれ。

夕東風や竹の触れ合ふ音のして/高浦銘子

「竹の触れあふ」は葉の擦れるささやきのような音、それから固い幹と幹が当たる音もあるだろうか。ここちよい風を感じる魅力的な句だと思う。
この句にも一応「竹の触れ合ふ音」を聞いている主体はいるはずである。うむ、一応存在はしていそうだ。ただ、それがどういう人なのか、全く情報開示がない。短歌なら「竹の触れあふ音」をどういう心情をもって聞いているのかを主体は滲ませる場合が多いだろう。寂しいのか哀しいのか(実際はもっと複雑だけど)、景を主体はどういうテンションで見ているのか、横顔が見える。短歌だと景だけを書くに留めるにはしばしば長すぎる。それが俳句では17音という極端な短さによって、景のみに留めることが実現されているんじゃないか。「表せない」ということでもあるが、主体像が透明になってしまうことが、先述の普遍性に一役買っていると思う。主体像が確定できないからこそ、誰でもある可能性が生まれているからだ。この句のなかで音を聞く主体は誰でもいいことになる。高浦銘子というある一人の体験の詠出ではなく、だれの記憶にもかつてあった瞬間のような感覚を、読者に生む。

短歌をやっていると、主体がどうしても自分の似姿になることに閉塞を感じることがある。虚構によってそこから脱しようとする人達もいるけど、傾向としては依然、主体≒私というのはあるだろう。だから俳句においてしばしば「主体が誰でもない」ことは現実の私からの解放のようで、魅力的に映る。短歌から俳句にいく人がいるとすれば、このあたりに要因があるんじゃないかと思ってしまう。

さて、次に「②季語の性質(公共性・循環性)」について考える。同じ句をもう一度引く。

夕東風や竹の触れ合ふ音のして/同

この句の季語は「夕東風」。季節は春。読んで字のごとく、春の夕方に吹く東風のこと。さて、俳句というたった17音の詩型が、季語を含まなければいけないという規則をもっていることは、一見非常に不利にみえる。特に短歌をやってると詩に対して「他でない自分」の声を「自分の言葉」で表現するものというイメージを持ちがちだ。おかげで変なオノマトペをつくったり、歌詠みは苦労させられる。だが季語は、自分で見つけてきた言葉ではなく、あらかじめ用意されたものである。各人が季語の倉庫から言葉をひとつ借りてくるイメージ。誰でも自由にアクセスできるが、勝手に増やしたり弄ったりは、基本的にできない。それの良し悪しは一旦置いて、ともかくも、季語にはこうした公共性が備わっていると言える。これはつまり先に①で指摘したのと同じように、主体の個人性をばっさりと切り捨てることになる。「他でない私の言葉」ではなく、「誰のものでもなく、誰にでも開かれている言葉」を使うのだから。俳句はそうした公共性のある季語というものを抱きかかえることで、日常的な個人から解放されえるのだと思う。

また、もう一つ季語の特徴があるとすれば当然「季」の部分だ。日本人は漠然と季節が好きということになっていて、なんかいいよねとは僕も思うが、それが季語という装置を俳句が利用する理由にはなりえないと思う。ここで注目したいのは季節には循環性があることだ。先の句で言えば「夕東風」はその年の春にのみ吹くものではない。千年前の春だろうが、何百年後の春だろうが、もちろん今年の春も、春が来れば必ず吹くものなのだ。だから「夕東風」と言われた時、読者はそれがどの春だったか分からない。であるが故に、それは「どの春でもありえる」ことにもなる。一句は個人の体験から切り離され、普遍性をもちえる。これはある種の短歌とは対極的だと思う。たとえば短歌にはこんな作品がある。

午前2時裸で便座を感じてる 明日でイエスは2010才/直
角川文庫『短歌ください 明日でイエスは2010才篇』より

この歌の輝きは主体が生きる「今」のかけがえなさから来ている。「午前2時」「2010」の時間指定は、主体が生きているその瞬間のみを表す。クリスマスは毎年来るが、2010年のクリスマスはもう二度と来ない。ここには季語の持つ循環性とは真逆の力が働いている。もちろん、これは僕の恣意的な引用で、短歌にもたとえば和歌のころには季節を詠む伝統があったりしたし、今もそれを完全に捨て去ったわけではない。単純に短歌/俳句と二元論的に分けて比較するのはめちゃめちゃに危ういが、傾向に注目しつつ、季語の機能の一側面を言うくらいは許されそうである。
特に『水の記憶』の句からは、短歌からはあまり感じたことのない種類の永遠性のようなものを感じたが、それは季語が、過去から未来に存在するすべての季節と繋がることのできる扉の役割を果たしているからだと思う。たとえば以下の句に僕はその永遠性を強く感じる。

たよりなき十指をかざし夕焚火
夏野とほくありて小さき火消壺
夏萩をゆらし憶良も人麻呂も
草踏みて水に近づく流燈会
(高浦銘子『水の記憶』より)

「夏萩をゆらし憶良も人麻呂も」などは分かりやすい例だと思う。憶良と人麻呂はどちらも万葉の頃の歌人だ。季語を介して今と過去が溶け合ってしまっている。また、「流燈会」は灯篭流しのことだが、こうした年中行事も自然と同じように季語になりえるのは、循環性を有しているからだろう。これまでも、これからも、無数の人が水辺に歩み寄った/寄るのだ。

さて、これまで以下の二点について考えてきた。

①透明な主体
②季語の性質(公共性・循環性)


ここまでは高浦銘子の句に触れつつ、一応俳句の話をしてきたつもりだ。
俳句という詩型の短さは主体像を表明するのには不向きでむしろ主体を透明にしてしまいやすいこと、また、季語に公共性や循環性が備わっていることは、間違いではないと思う。

さて、本題はここでおしまいなのだが、ここからは俳句の話ではなく、高浦銘子という俳人の話ということになるだろうか。もうちょっとだけ言いたい。

この文章はそもそも『水の記憶』を読んでいたときに感じた妙な開放感に、理由づけをしていったものである。実を言うと、始めは俳句の性質としてもっと一般化できる話になると考えていた。でも考えてみれば、高浦銘子の句しか僕はまだ読んだことが無い。なにかの傾向を指摘するとして、それが高浦銘子の句特有のものなのか、俳句そのものの傾向なのか、判別する術がないのだ。それで二冊読み終えた段階で、第一句集『水を聴く』や歳時記等を再度ぱらぱらと見直した。そこで以下のようなことを感じたのである。

俳句にはある傾向や性質がたしかに認められるとして、ではそれを詠み手が意識的に利用したか、もしくは結果としてそうなったか、というのはまた別の話なのではないか。

何が言いたいかというと、これまで指摘してきた俳句の持つ性質を、高浦銘子は第二句集『水の記憶』において意識的に利用していったのではないか、そこに彼女の意図があるのではないか、と思うのである。当然第一句集『水を聴く』にも、主体の透明度の高さや季語が存在していて、それはある種の普遍性につながってはいるのだが、それを第二句集で意識的に押し進めていったように見えるのだ。たとえば、『水を聴く』には、詞書を付した句が存在するのだが、「結婚」「山口青邨先生お別れ三句」「長女日奈子誕生」がそれにあたる。これらの詞書は、句を詠むに際しての個人的な事情である。これは「主体の透明度」をむしろ下げる性質のものだろう。各章のタイトルも「父の机」「雪の窓」など、抑制的ではあるものの多少の具体性がある。第一句集には、高浦銘子自身の人生が垣間見えるし、彼女もそれをあえて見せる気があったのだと言える。対して、第二句集『水の記憶』には、詞書がまず一切出てこない。また、各章に付けられたタイトルは「水」「月」「火」「鳥」「風」「光」「雪」といったもの。限りなくシンプルなのだ。僕自身、先述した俳句の性質には、第二句集に入ってやっと気が付いたようなところがある。それは今思えば、高浦銘子自身が俳句のもちえる普遍性を、第二句集以降において、意識的に志向していたからだったように思う。

ここで改めて句集のタイトルを見ると興味深い。
『水を聴く』と『水の記憶』。どちらにも「水」が共通しているが、水に対する姿勢のほうに注目したい。まず第一句集は「聴く」だ。ここには、確かにまだ「水を聴く私」が存在している。それが『水の記憶』になると、もはや水そのものが持っている記憶であり、「私の記憶」ではない印象になっている。助詞の「の」の意味はあいまいで、「(私の)水にまつわる記憶」の意味にとれなくもないが、作品が湛える普遍性を思えば、ここでは、この星のあらゆる場所に普遍的に存在し、永遠に自然界を循環し続ける水そのものが持つ記憶のことだと、解釈しておきたい。当たらずとも遠からずだといいのだが。

第二句集に関する推測については、もっと句を引きながら具体的に論じたいような気がするが、比較できる他の句集もないし、それ以上にもう僕が疲れたので、最後に『水の記憶』から、好きだった句をいくつか引いて終わりたい。

船室の暗さにありてミモザの黄
河童忌の蝶一対の行方かな
夏蜜柑いまもマヤ語の使はれて
玉椿ゆふべ落とせし花の数
運ばるるひよこ一箱花の昼
リラ咲くや英訳源氏物語
鉄匂ふ町でありけり夏燕
こほりつつ溶けつつ春の水となり
高浦銘子『水の記憶』より

きりがないのでこのくらいにしておく。俳句が、というよりも、この人の句が僕はすごく好きなのかもしれない。一応、今回触れた『水の記憶』の、出版社のリンクを貼っておきます。ここでは品切れになっていますが、アマゾンにはそれなりに安く出回っているようです。

以上です。
最後まで読んでくれてた人がいたら、とっても嬉しいです。

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