2024/5/17

人に言うと必ず驚かれるのだが、16万ツイートはさすがに多いので、しばらくTwitterはしないことにした。本当はTwitterをみること自体をやめたいのだけれど、なかなかそこまではできなくて、でもツイートしなければ反応もないので、それですこし見る時間も減ればいいのだがと思っている。

とはいえ、さすがに長くTwitterをやりすぎていたので脳が癖になっていて、生活していると頻繁にツイートを思いついてしまう。「今日こそお風呂に入るぞ」とかなんとか言いたくなったり、あるいは町でなにかを見つければ、添える一言を思いつきながら、変な看板の写真を撮っている・・・のだが、おそろしいのは、思いつくツイートのほぼすべてが、私が本当に考えていることではない、ということである。いや「本当に考えていること」なるものが存在するとは思っていなくて、そうではなくて、どちらかといえば「なにも考えていないのに自動的にツイートは思いついている」のである。(とはいえ、何かを考えようとして考える、などということができるのか、という疑問もあるが)
 言ってしまえば、私は私の身体で町を歩き、私の目で世界を認識しているようでありながら、その実つねにどこかでTwitterのいち外部器官として、身体を貸しているような状態で数年を暮らしていたような感じがする。ツイートする、反応をもらう、ツイートする・・・という際限のないサイクルのなかで、私は承認され、居場所にもなっていたが、それを保存し続けるには、発される言葉が承認され続けなければならない。最近は適応し過ぎたと思う。もはや無意識的にTwitterに承認される言語を出力することができる。でもそれは、実体と徐々に乖離していくことでもある。つまり、そこで承認されるものもまた、徐々に私ではなくなっていった。「Twitterをする」とは、単にTwitterに文章を投稿することではない。ある意味でそれは、Twitterになってしまうことなのである。町にはおそらく、昨日までの僕のように、Twitterの外部器官としての人々があちこちをうろついていて、写真を撮ったりして回っている。

 久しぶりに取り戻した視覚や聴覚を、なかばもてあましながら、公園を眺めたりしていると、なんだか映画を見ているような気持になってくる。(映画館では、Twitterができない。)

 昼休み、もう真夏みたいになった公園の、木漏れ日の差しかかるベンチに座る。足を組みながら、パックジュースのストローを曲げて、遠くを眺めていると、視野の向こうにも木々の緑がゆるやかにそよいでいて、やはりぼくと同じような人が、その下のベンチで昼食を食べている。口のなかに入ってくる野菜ジュースの味は、透明な味がして、見えないのに、それは透明だと分かる。視覚と味覚の組み合わせによって、やがて訪れている懐かしさは、このごろなじみになっているものてある。

 芝生の広場の、伸びすぎてほとんど草地になったあたりから、いくつかのムクドリの頭だけが、ときどき顔をだして、右や左に移動していくのがみえている。ひとに送ってやろうと思ってかまえたカメラを、途中でなんとなく動画にきりかえて。芝生にシートをしいて寄り添っている二人の背中は、話しているのか黙っているのか、よくわからない。



『鯉派』の文章について、自分で検索をかけていたら、言及してくれているのを見つけた。嬉しいです。

 ここでは詩は書かれるものか、歌われるものか、という話題と関連して言及されているが、ひとまずの私の現時点での考えをいうと、それはどちらでもないのではないか、ということになる。
 もちろん、便宜上私たちは「詩」というとき、書かれたものを名指していますが、それはあくまで慣例としての話です。では歌われるものか、というとそうでもなく(もちろん歌われてはいます)、結論から言えば、ここで問題なのは、書かれる「もの」、歌われる「もの」の「もの」ではないか。
 木村敏の『時間と自己』では、たしか「私」というものを(「もの」といってしまいましたが)モノではなく、コトである、と言っていたような気がしますが、詩にも同じことが言えて、つまり、読む、あるいは歌っているときの「私」とテクストとの相互作用として、ひとときそこに立ち現れている現象こそが(それは、私、あるいは詩のどちらか一方に属すのではなく、相互が一体として有機的に作用しあっている)「詩」なのではないか、という考え方です。これについては、あるいは伊藤亜紗氏のヴァレリー論も参考になるかもしれない。
(Twitterをしているときの私が少なからずtwitterであるように、短歌を読む私は、そのとき短歌になっている・・・?)



また、今日はこれも読みました。

桑原憂太郎氏は当事者性についての議論を、「批評空間」が未熟であることの証左であるように書いているけれど、それは違うんじゃないかと思う。
短歌はテクストであり、その分析をすればよい、というのは、上に書いた私の短歌観には抵触する部分があるし、そうでなくとも、私は桑原氏のようには割り切ることができない。短歌が、たんなるテクスト(テクストという用語的に、たんなる、は矛盾している気がするが)ではなく、人間とテクストとの相互作用であるならば、それを読んだ人間たちが、なんらかの倫理的抵抗を覚えた、という事実を、軽く見るべきではないのではないか。むしろそのような声の存在は、短歌定型というものの本質とどこかで繋がっているものでもある。少なくとも、読者の自然な感想の発露をないものにしながら、いっぽうで「臨場感」を歌の加点要素にするというのが「成熟した批評空間」だとは思えなかった。

それではまた。






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