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社会は教室でない:右体21

 「二叉路」第三回が出ています。ぜひ。

 小池耕が出してくれる生活の話を、僕が色んな方向に引っ張って、どんな味わいになるかということを試す気でいます。まあ、すってんころりんってとこで。

 第一の応答、テクストおよび短歌の位置づけについて付言。

 「詩は書かれるものか歌われるものか」に類する問題は、なかなか難しく繰り返し目の前にあらわれてくるものだと思う。現代短歌の作り手はほとんど、書いているのではないか、それもディスプレイに向かってキーボードを叩いて。と、考えているのだけれど、それとは反対に、読むときには「歌われたものとして」扱われがちだと思う。これは自然に出た言葉だ、嘘がない、無理がない、あるいは反対に技巧的だ、とか。複層的に身体が透けて見えてくる、そういうメディアだなと思う。

 『鯉派vol.1』の門坂崚「「私性」試論」を短歌会の勉強会で読んだことがあったのだが、これは上のような、わかっているようで考えてみるとまったくわからなくなることについて分け入ってみるような論考で面白かったなと思う。この点については結論的なことが言えそうにないけれど。

 さて。テクストの分類へ入っていく。論文/広報/宣伝(と扇動)/広告/文学と五つに分類して、うち宣伝と広告の領域が広いことについて特別に言及したのだが、「試験問題および試験対策的な教科書」は、これに加えて独立した性質をもつテクストでもあるな、というのが今回の広がりだ。

 広義には広報の一つとして数えられるだろうが、しかし、その使い方はかなり限定されている、というのがその理由だ。そしてそれは、人と人との関係についての信念と強く結びついていると思う。

 どういうことか。
 『世界』二月号の特集2:受験という迷路の論考がそれを表現している。特に鳥羽和久「受験後遺症の大人たちが子どもを追い詰める」が明晰で面白かった。

日本では大人になっても「勉強」観をアップグレードすることなく、学生時代の延長でそのことを捉えている人が多い。

しかし、「勉強」というのは本来、手段である必要はなく、むしろ大人にとっては、自分の足もとを耕して人生を豊かに味わうためのものであり、それは目的や意図を離れて初めて、出会いの扉が開かれることが多い。
このような「勉強」の可能性を初めから狭めてしまう思考の癖は、大人たちが学生時代に身につけた常識や規範を反復していると想像され、この意味で多くの大人はいまだに学校教育と受験競争の後遺症の中で生きているといえる。

私たちが過去の地層の中に置いてきた「つくる」ことは、現代の競争社会への提供手段となり得る。なぜなら、つくるためには身体を使った試行錯誤が必要で、その際には、環境に対して入出力のループができ、自分の身体と世界が直接つながっていることを感じることができるからである。これは、自身の身体理解を深める経験であり、それが自己認識につながることで、人生を支える軸のようなものが体得できるようになったとしても不思議はない。

 知りたいことを知ることと、何かを調べたり覚えたりすることがまったく繋がっていない人というのは、たしかにいる。それが新たに付け加えるべき知識の形態と言えるだろう。

 そして、そういう場合に、社会と、集団とか組織とかいったものとの区別がない人がたくさんいて、僕はその後遺症のほうに目がいくことが多い。

 教室は、カリキュラムが遂行されることと、子どもを預かることのために生徒や教師が奉仕しているのであって、それ以上でもそれ以下でもない気がする。生徒が教育を獲得することは副産物でしかないようなかたちをしている。そのため教室ですごしづらくなった子どもが教育機会をべつに求めるとそんなものは見つからないということにもなる。集団がまずあって、その特殊な定型への適応性の可・不可があるだけだ。

 これをそのまま、社会にも当てはめて考えて、率直に集団主義とパターナリズムだけに奉じているひとというのはかなり多い。これがいちばんの後遺症だと思う。

 社会の役に立つとか社会にとって害であるとかそういう、つまらない漠然とした自己否定自己肯定、強迫観念がそれだ。「自己肯定感」とか「社会適応」といった言葉がクリシェになっているのはどういうことだろう。人を肯定したり否定したりしているのは人か組織だし人が努力して適応しているのは組織に対してだ。

 社会は何らの目的をも持たない。それはただちに、社会を良くしようとすることは悪であるという意味だ。ただ社会問題を取り除くという公正が順次なされていくということにとどまる。なぜこれがはっきり言えるか。社会には外部がなくて、出ていけないからだ。出ていけない場所に一つの価値観が充満してしまえば、多かれ少なかれそこは誰にとっても地獄になる。社会のなかにどんな目的集団があってもいいが、そこに入ることもそこから出ることも当人の自由でなければならない。

 子どもの感じるリアリティとして出口が外部がないような教室というのは一つの地獄で、責任が取れない存在なんだから、他のやり方ではコストがかかりすぎるのだから、という理由で無理やり突きつけられていることからくる後遺症、というのが上にみた整理の出るところなのではないか、というのが僕がいまできるだけ広げてみた風呂敷の全体だ。

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