くろたん一首評(2021/3/24)

わかるのもわからないのも同じ濃さでマークシートを塗りつぶしてく/ワトゾウ

 少し前に、僕とワトゾウさんで「架空公共交通」というネプリを作った。これはそのなかの一首。(「架空公共交通」は、診断メーカー「謎の駅」で遊んだときに出てきた実在しない駅名からイメージを膨らませた連作を、各々3作づつ載せている。)

というわけで読んでからだいぶ時間が経ってしまったのだが、この歌が頭のすみになぜかずっとひっかかっていた。特に結句が。

まずはふつうに意味から読んでいく。この歌の面白いところは「わかるのもわからないのも同じ濃さ」の部分だ。さらっと読んでしまうが、けっこうおかしなことを言っていて「わかんなかったら薄くしたりする人おらんやろ」って突っ込みたくなる。同じ濃さで塗るのはあまりにも当然なので、逆にこう詠まれたときの驚きがある。そこから読み手は、なんでわざわざこんなことを言うの?と考えさせられることになる。この場合、わからないまま塗ることの不安が「同じ濃さ」という表現に繋がっていると見るべきだろう。

連作全体で見ると、学生だとすぐに分かるが「マークシート」だけでもなんとなく受験期なのかと想像がつく。一見、単純にマークを塗っていて、合ってるか不安だ、というだけの歌なのだが、それ以上の感覚が滲んでるような気がして、それがすごくいいと思った。受験期の不安には、落ちるかもというシンプルなものの他に、自分で将来を選択しなければならないのに、自分がほんとうにしたいことはわからなくて、でも期限内に決めなければならないという状況からくる、未来に対する漠然としたものがあったと思う。表面上は自分の意思でも、焦らされ、なにものかに未来を塗らされていくような感覚。それがテストの制限時間内に、合っていようがいまいがマークを塗る、という行為と奇妙に重なりあっているのではないか。「塗りつぶす」ではなく「塗りつぶしてく」という、言い方には、他人事のような、どこか冷めたものを感じるが、それはほんとうの自分の意思ではないという感覚があるからではないだろうか。

さて、僕がなぜ結句を気にしたかというと、省略が含まれているからだ。「塗りつぶしていく」ではなく「塗りつぶしてく」。僕は短歌を書くときにできる限り省略の類いは排除したがるタイプで、これが僕の歌だったら「していく」にするべきかかなり悩むと思う。でも「してく」のほうがやはり歌が生きている気がして、その要因はなんなのか気になった。まだ説明しきれる自信はないが、なんとなく、マークを塗る行為の単調さ、作業っぽさが、「してく」という一見なげやりな省略を引き出しているのではないかと思う。また、時間に追われている状況ともリンクした表現なのではないだろうか。時間制限があるなかでは「していく」の丁寧さより、「してく」がしっくりくる。この省略が歌に臨場感を生んでいる。とかなんとか考えながら見ていたら、歌の前半の「わかるのもわからないのも」の「の」も「もの」の省略だ。この歌には妙なスピード感があって、焦らされているような感じを受けるが、それは省略によって一首全体が統一されているからだと思われる。

普段は避けがちな省略形も、使いようによっては効果を発揮するんだなと思わされた一首でした。

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