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面白い映画見つけた『おみおくりの作法』

 ふとしたことで、面白い映画を見つけたので紹介しようと思う。
 タイトルは『おみおくりの作法』。
 静かな映画だ。だけど、何かひっかかる。
 ひっかかるところがあるというのは、優れた作品の証拠だ。

 英国はロンドンのケニントンと呼ばれる地区にある役所に勤める男の話である。
 二〇一三年公開のイギリスの作品。上映時間は九一分だから、それほど身構えずに視始めることができる。
 ジョン・メイという名のこの男が所属するのは、日本語字幕では「民生課」と表示されるが、セリフでは「クライアント・サービス」と称されている。要するに、誰にも看取られずに孤独死した住民の死後事務を行う部署である。
 仕事内容としては、まずは遺品から近親者を探す。近親者がいない場合、あるいは、近親者が見つかっても葬儀を引き受けてもらえない場合には、葬儀・埋葬・遺品処理等を行う。
〝部署〟といっても人員は一人きりのようである。

 どう見ても陽の当たらないセクションだ。オフィスらしき部屋も、役所の建物の地下にある。
 しかしながら主人公は、そうした地味な仕事を、一件一件、懇切丁寧に処理する男なのだ。
 その仕事ぶりはジョンの性格を反映している。
 几帳面で、日常の所作がルーティーン化されていて、質素な生活を送っている。
 四四歳。勤務歴二二年の独身の男。
 業務で日々対応している孤独死した住民のように、自身も将来そうなることが予感される――。
 作品の原題は『Still Life』という。これには「静物画」の意味があり、孤独死により「主」を失った部屋の様子は、まさに静物画の世界である。けれど素直に受け取れば、ここでは「静かな人生」といったほどの意味だろう。
 作品で示されるのも、主人公の「静かな人生」である。

 映画は、男の日常業務を追うところから始まる。
 教会の葬儀の場面。しかし何かおかしい。参列者が一人だからだ。そしてこの男はなぜか教会関係者たちと随分親しいらしい。
 観客は最初、男がどういう職業に就いているのかわからないが、それは次第に明らかになってくる。
〝日常〟を描くだけではドラマにならない。
 そこである日、〝事件〟が起きる。
 主人公の自宅の部屋の窓から見える向かいのアパートで、孤独死が発生したのだ。
 物語としては、ここから《謎解き》の要素が始まる。
 死亡した住人の近親者は見つかるのか。住人はどんな人生を歩んだのか。葬儀への参列者は見つかるのか。
 同時に、主人公を苦しめる事態が生じる。役所のコスト削減のため、解雇通告を受けるのだ。そして、現在の案件を最後とし、これを三日間で処理せよと命じられる。
 ここに多少の《サスペンス》の要素が生まれる。
 主人公は、期限内に近親者を見つけて案件を完了できるのか?
 また、この事態は上司との〝対立〟でもある。主人公の丁寧な仕事ぶりを「価値無し」とする効率優先の上司と、どんな人であっても丁寧に「おみおくり」しなければならないとする主人公の価値観が対峙する。(私見では、これが作品の本テーマだ。)
 遺体となり、誰も引き取り手がいないような人物について、丁寧に葬儀・埋葬を行うことの価値は有りや無しや――。

 主人公ジョンの扱う最後の案件は、ウィリアム・ストーク、通称ビリーなる男の死である。
 ジョンは、ビリーが部屋に残していた写真のアルバムを手掛かりに、生前ビリーと関係のあった人物を訪ねるため、バスと列車で英国中を旅する。
 ビリーが働いていたミートパイ製造工場の同僚。
 フィッシュ・アンド・チップスの店を営んでいる、かつての愛人。その間に生まれた娘(ただし娘は父親を知らされていない)。さらにベビーカーに乗ったその孫。
 ビリーが服役していた刑務所。その記録文書から探り当てたアルバムの少女、娘のケリー。
 アイルランド紛争でともに戦ったというパラシュート部隊の同僚。
 さらに、ビリーが路上生活に転落した後に交流のあったホームレス。

 ビリーの人生を辿る過程で、主人公もまた静かな変化を遂げていく。
 それは食べ物によって描かれる。
 型にはまった生活をしている主人公の食事はいつも決まっていて、それはツナ缶と一枚のトーストとリンゴとコーヒーである。
 その主人公が、ビリーの働いていた食品工場の同僚から「ミートパイ」を勧められ、元愛人から生魚の「鱒」を手渡され、出向いた先の駅のキオスクで、新しく導入した機器で作る「ココア」を押し付けられ、運搬車から落下したカップ入りの「アイスクリーム」を拾って食べ、話を聞き出す見返りにホームレスが要求した「ウイスキー」を口に含む。
 自分で作った規則から一ミリも外れないような几帳面な男が、自分に解雇を言い渡した上司の自動車に立小便するまでの大胆な男に変貌している。
 さらには、ビリーの娘に対して淡い恋心(?)が芽生えたり……。

 しかしジョンが扱った多くのケースと同じように、故人の関係者は見つかるが、そのうちの誰も葬儀に参列するとは言わない。
 ジョンは、関係者を巡る旅で知ったビリーの人生に即した立派な追悼文を書き上げて、葬儀の準備を終える。
 これで最後の案件は終了。解雇を言い渡されているので、オフィスの整理にとりかかる。
 と、そこに朗報が入る。ビリーの娘ケリーが、やっぱり葬儀に参列する、と言う。
 事前の打合せで、ジョンとケリーは良い雰囲気になる。ひょっとしてロマンスに発展するのか?

 ところがここで、これまでのストーリーをぶった切ってしまうような出来事が起こる。
 ジョンが交通事故に遭うという偶然。主人公が死んでしまうというバッドエンド。
 これは、脚本としてイケていない所と見ることも可能だ。
 しかし、この点にはあまり引きずられないようにしたい。主人公が事故死するという結末は、物語全体にとってあまり重要ではないからだ。
 これまで絶対に信号を守ってきた男が、その時だけは守らなかった。それは、ケリーと新しい人間関係が始まりそうで浮かれていたから、ジョンに訪れた「変化」が仇となったから、という説明も一応は可能だ。(私見では、ここでジョンを無理に死なせる必要性は無かった、と思う。事故に遭わせても遭わせなくても、どちらでもよかった。)

 問題は、ここから《大逆転》が始まることである。
 最後の最後で、逆転ホームランが飛び出すのだ。
 事故死したジョンの遺体の埋葬が行われている隣で、ジョンがアレンジしたビリーの葬儀が行われている。
 そこに、「私は参加しない」と言っていたはずの関係者全員が集まっているではないか!
 ここが作品のクライマックス(泣かせ所)である。
 彼らは、もしジョンが動かなかったら、決して葬儀に参列することのなかった人たちだ。
 ジョンの仕事は報われた。最後に実を結んだ。
 ジョンの丁寧な仕事には意味があった。人の死に対するジョンの価値観が、上司のそれに勝った!
 映画は、葬儀が終わり関係者が去った後、生前ジョンの手によって「おみおくり」された故人たちの霊が復活して、ジョンが埋葬された地点にわらわらと集まって来てジョンを見守るというファンタジーの要素をまじえて閉じる。

 というわけで、本作は小品ながらも、物語の《造り》がしっかりしている作品だ。
 主人公のキャラクターが際立っているし、主人公の苦労が最後に実を結ぶというカタルシスもある。
 テーマも明白だ。
 ――完全に無縁な人などいない。
 生きていた限り、どんな故人にも関係者がいて、関係する限り、人は何らかの影響を相手から受けている。ひとり者として生涯を終えたジョンにも、実はたくさんの関係者がいた。
 視聴する機会があれば、是非お試しいただきたい作品だ。

(2021年9月14日記)


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