『君主論』の前半だけをスケルトンにして味わう#1 「歴史はこうなっている」
ふとしたはずみで、マキャヴェッリの『君主論』(1532年)を読んだ。
意外に面白かったので、ログを残しておこう。
全26章。
この書を、大きく2つにぶった切ってみたい。
「第15章 人間が、とくに君主が、称賛されたり非難されたりする事柄について」に次の文章が出てくる。
私が目をつけた境目は、ここである。
ここから先は、よき君主であるためには、権力を長く維持するためには、君主たるもの、どうしなければならないか、について書かれていると思う。
『君主論』は日本人の間に人気があるのだろうか。
西洋の古典にしては、意外に多くの本が出ている。
しかし個人の勝手な印象だが、それらの大半は、自己啓発本の類いとして読まれているのではないか。
つまり、ビジネスに活かすとか、管理職の育成に活かすとか、よきリーダーになるための心がまえを涵養するとかの目的で。
例えば……
そして、これらが主に参照しているのは、先ほどの文つまり第15章以降の〝後半〟部分ではなかろうか(注:読んでいないので勝手な想像である)。
これに対して、第1章から第14章までの〝前半〟には何が書かれているのか。
《俯瞰すれば歴史はこう見える》ということが書かれている。
そもそもこの書物はニッコロ・マキャヴェッリが「偉大なるロレンツォ・デ・メディチ殿下」に献上した品なのである。
冒頭に次のようにある。
自分は何も持っていないから、レポートを差上げます、と。
何についてのレポートかというと、「偉大な人々の行動」である。
偉大な人々の行動は、歴史をつくる。
つまり、これは歴史分析の本なのである。
マキャヴェッリが自身の読書経験と実体験を通して獲得した「歴史はこうなっている」という認識を伝えるものである。
それが〝前半〟だ。
これを踏まえて、「君主はかくあるべし」を述べたのが〝後半〟だろう。
私が興味を覚えたのは〝前半〟つまり「歴史はこうなっている」の部分である。
そこで、この記事では『君主論』の前半だけを取り上げる。
また、マキャヴェッリは自分の説を裏付けるために、ギリシアやローマやイタリアの歴史を引っ張ってくる。
自説はこうである、例えばどこそこであのとき誰々はどうした、その結果どうなった……というように。
しかし、ヨーロッパの歴史に関する素養に乏しい自分には、それらの例証は煩わしく思われた。歴史を知らないのだから、それによって説得されるはずがないではないか(と開き直ってみる)。
そこで、それらの肉づけされた部分は無視して、論旨だけを追うことにした。
いわば、肉を削いで、骨だけにしてみた。
そうして骨格が明らかになってくると、何となくその上に、〝肉〟を被せたくなる。自分にとってより馴染みのある「日本の歴史」という〝肉〟を。
すると、意外なほど面白く読めたのである。
この記事のタイトル――『君主論』の前半だけをスケルトンにして味わう――とは、そういう意味である。
(次回に続く)
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