見出し画像

ゆっくりと時を流そう

 最近心の状態がとても良くて、それを言葉で書きたくなったので、最近は中々書いていなかったのですが、一旦書き留めます。未来志向で、やりたいことのために逆算して考える、自分を何かと切り離したり、枠組みに囚われないように考えようと必死になっていた自分が現在どのようになっているのか、残しておこうと思います。

初めに

 中田敦彦のYouTube大学で紹介されていた、「年収90万円で東京ハッピーライフ」という内容の動画を見た時に「やば!この人おれと一緒のこと考えてる!極めたらこの人になりそう(笑)」って衝撃を受けて、鳥肌がすごかったんですよ。その高ぶった感情と、今の所外に出していなかった自分の心の中を少し出してみようと思っています。「90万円で東京ハッピーライフ」マジでスタンスはこれです。気になる方は是非→【年収90万円で東京ハッピーライフ②】やりたくない事さえしなければ優勝


さて

 冒頭で書いていないとは言ったけど、そもそもSNSの更新とかもほとんどしなくなっていて、たまにするインスタのストーリーも焚き火かキャンプか畑の野菜たちかって感じになっていた。
 すると外に発信するということに対して自分が何を求めているのかがわかった。多分共有したことを「うわ、分かる~」と共感してほしいだけだったんだとわかった。ただそれだけ。しかも全員に知ってほしいとか、見て!って思っているんじゃなくて、分かる人いるっしょ?!ってイメージ。そこにわかる!ってなってくれたら、それだけでうれしい。ということがわかった。

 一時期何もかもわからなくなった時期があった。先の夢は本当にやりたいことなのだろうか、その夢のための手段も本当にそれなのだろうか、そもそもそれって自分で本当に描いているモノなのだろうか。誰かにとっての“自分”を形作るためだけにそれを語っていなかっただろうか。本当の自分が何者なのかわからなくなった時、強烈な恐怖が自分を襲った。

「おれは今まで誰で生きていたのだろうか」

 辞めた。一切自分を何かで作ることは辞めた。辞めたと言っているが、辞めようと思うのすら辞めた。まっさらな何もない状態にした。何も形作ることのない自分にした。そうすることで日々感じることが変わった。澄み切った目の前だけの世界に広がるのは、地球と、それを形成する自然と、そこにいる自分以外の人たちでしかなかった。だいぶ飛躍するが、なぜか何に対しても優しく考えられるようになった。人が言ったことは、その人にしかわかりえないもの、ということを切り捨てるのではなく、その人の考えや想いを認め受け入れられるようになった。


一旦

 ここまでのアウトプットが自分の中にあるものと一致しているかわからず確認してみたが、何となくそのままで一旦吐き出してみようと思う。この確認をしたことによって、外に出すというフィルターがさらにかかってしまったかもしれないが、たぶん今の自分だったらそこもそれなりに修正して書けていると思うから、続けていく。

そして今

 一旦いろんなことを受け入れることにした。何を、か。それは、その時々で感じる自分の感情や想いというものを受け入れることにした。自分のことを受け入れることで、毎回自分自身を感じることができた。

「あ、今自分は時間を欲していたんだな」
「あ、この人には自分はこれを期待していたんだな」

先の事ばかり考えていたあの頃の自分は、先から逆算した自分の感情や考えでしかなく、今ここにある自分の感情と想いを今の自分で感じていなかった。だから、現状に不満が出たり今に苦しんだりしていた。しかし、先の未来も今が繋がって先になるんだから、未来とは今を限りなく先に延ばしたものであることを認識した。つまり、未来を先に考える方法よりも今を考える方法の方が確実だし、自分もその方が楽だと思えた。


 自分から幽体離脱するように、自分のことをさらに自分で見ている感じを続けていくうちに、その第三者目線で自分を見ていた自分は他者に目を向けるようになった。自分はこう感じている、相手はどう感じているのだろうか。人が話しているのを見たり、どのように感じているのか観察しているものの、分からなかった。全然何を考えているのかがわからなかった。ここで新しく、他者のことは分からない、つまり他者は他者として、他者を受け入れるようになった

 この状態になってから自分の周りの時間をゆっくりと感じるようになったと、最近人に話してみたことで感じた。未来は今を限りなく延ばしたものと捉えるようになってから、今を大切に生きている。すると今の時間を丁寧に過ごすことができた。
 効率を求め、何かをしながら何かをする、例えば、コーヒーを入れながら、何も考えずにYouTubeを見るとかをしなくなった。これは意識的に、コーヒーを入れながら、今一番見ておきたいYouTubeもあるから今のうちから見ながらやろう、だったら良い。「コーヒーを入れている」という時間に対して自分が意識をしているかしていないかだと思う。そのコーヒーを入れている時間にも、本当にコーヒーが飲みたいと思っているのか、ただ単純にのどが渇いたのか、コーヒーを入れている自分というものを共有するためにコーヒーを入れているのか、それが何なのか感じられるからだ。その心や頭の状態になって、コーヒーを入れているということは自分は何を想っているのか…。
 そういったものも感じられるぐらいに今を丁寧に過ごして、ゆっくりと時を感じるようになった。


 とは言っても、こう感じている傍ら、何か捨ててしまったのではないかと考えた。一つ見つけたのは、「期待」だった。これは良い意味でも悪い意味でもなのかもしれないし、今の所、頭でそう考えているだけで、今までの事から何か変わったり、支障が生じていたりはしていない。ただ、たぶんそれは捨てているんだろうと思う。これ以下は予測の話になるが、他者に対して干渉をあまりしなくなったということは、他者の肩を持つということをあまりしなくなるんだと思う。すると、「冷たい」「思いやりがない」とか言われそう。でも、果たしてそもそもの所を考えた時にそれが本当にその人にとって冷たいのか、思いやりがないのか、どうだろうか…わからない。あまり良い例が思いつかなかったし、実感がないのでわからないが、そう思われることもきっとあるのかもしれない。でも、そう思われるのは好きではないので、極力そう思われないようには努力しようと思って生きている。


これから

 一時期『幸せな事=嫌なことに触れない事』と定義していた。自分の心を消費している感覚がすごく嫌で、搾り取られるような心の苦しみは感じたくないから。嫌なことや苦手な事でもそうだが、一旦自分の範囲から外す。外して自分の周りを安全に保つ。ほとぼりが冷めてきたらぬるっと自分の範囲内に持ってくる。それが大概だった。でもその“嫌な事”の定義が自分の中でまだ明確になっていないので、自分の幸せの定義をそれにすることはやめた。結局何なんだろうなあ、まだそこまでは分かっていない。

 ただ、すごく自分の周りがゆっくり感じて、自分が発言することに恐怖を感じなくなって、どこか少し何事にも自分の距離を作ろうとしていて、余裕ができて、楽で、何か優しくなっていて。とても良い状態なんだなあ。よく自分の感情や想いを感じられるので、生きてるなあと実感できる。
 もっと細分化して自分の幸せとか豊かさを考えて明らかにしたいなあと思う。そしたら、自分自身もっと自分で納得して過ごせる気がする。とりあえず今やりたいと思っていることをやってみて感じたことを認めてみよ。とりあえず、このnoteから。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?