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カメラってなんだ~自分のカメラへの気持ちの推移と一考察~

「カメラなんて高い趣味やらんわ」

カメラ、それは貧乏人には敷居が機材代が高いイメージでよく若い頃にはディスっていました。ひいては、芸術は、美術作品が高額のものがあることから、金持ちの道楽とも思っいてたことがある人間です。貧しいと卑屈になる時は誰しもあります。

いまはというと、20台~くらいのカメラが部屋を占拠している状況です。中古のジャンクからですが玉石混交、素晴らしい。

所持品のレトロな蛇腹カメラのパーレットが最古のものになりまして、最新型はNikonD5200でしょうか。

フィルム式の古いものから比較的新しいデジタルものを、すべて中古もしくはジャンクで手に入れましたが、メンテナンスしていくうちにカメラについて一つ二つ語れるようになったというところです。


ついにレンズを「構成」する

カメラを語る人の中にはマウントをとりたがるひとがいまして、世の中のマウントはもったいないことに芸術の芽を摘んでしまう。
マウントはニコンの"Fマウント"が好きですが、私はそういう洒落を好むのです。

レンズを一通りバラして組み立てて、そんなことをしていました。そうしていくうちにある日、オリジナルを作ってみたいと思うようになりました。

オリジナルといっても、そんな大それたことではなく、あっちとこっちのものを付け替えて構成するだけです。

そして、最近になってやっとオリジナルでのカメラ構成に成功しました。

喜びの時間

レンズは当時のミノルタによるプロジェクターレンズです。
(CHIYOKO P-ROKKOR 2.5/75)
カメラレンズではないんです。

これにタムロンの骨というか、Fマウント部分と絞りを頂戴しました。
(AF ASPHERICAL 28-80mm 1:3.5-5.6 φ58)

型どりなどの試行錯誤にだいぶ時間がかかりましたが、

ダイソーや不用品(空き缶)などを駆使して何とか組み上げることに成功。達成感は伝わりづらいのですが、市販品で済ますよりも遥かに大変で、無駄が多く骨の折れる作業なのでどうやったかなどはこの記事の外です。


カメラは眼か、

カメラはレンズという機構を備えることで光を捉えることができます。しかしながらそれは私たちの目のそれとはちがう屈折率を持っていて、本来的に僕らはカメラを使った時点で実物を切り取ることは出来ません。

それでも人々がカメラに魅了されるのは、むしろ目では見えない捉えられないものを写すことにあると思います。
そこにはリアリティや非リアリティが入り交じり、なんと奥深い世界を見せてくれるのでしょうか。

スマートフォンの画面越しに見てる写真のそれは創作で生み出されるイラストレーションのそれと同じように、創造性に満ちています。

表現をしたいものがコレだ、となっているならそれに必要な機材が必要かもしれません。ですが写ルンですでも芸術的な絵は撮れるもので。

こだわりとこだわりを捨てた部分の中に写真芸術は生まれるのかもしれません。

加工は悪か

Photoshopを使えば現像の画像を、自分の思いのままに動かせます。加工でパキパキになった写真のそれを、写真と呼ぶのか。という思いがありましたが、先に述べたような理由で、加工は表現の一部なのかも、と思うようになりました。

心象風景を写真によりリアルに起こすことは、帰って、その表現者の思いが籠るので面白いと思っています。

写真を"越えて"伝えたい思いやパッションがあるならそれは写真の芸術的なものをより高める気がしています。


表現者になりきれない自分

私自身、どうも物事を構造的に理解したい欲があり、写真においてもこのような記事を綴ってしまう。故に、どこか傍観者の面があります。

芸術的なそれを、もっと知りたい。そう思っていますし、冒頭の卑屈な思いとは異なり、芸術は無一文でも心を豊かにすると確信しています。

何はともあれ、ひとまず、
愛用のカメラを持ってまた出かけるとしますか。



斑鳩入鹿

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