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私だって倒したかったよ、こいつを。 映画「バーバラと心の巨人」(感想)

 「ネガティブハッピー・チェーンソーエッジ」という大好きな漫画がある。家族を事故で失ってしまった女子高生が、悲しくて悲しくて悲しみに耐えられなくなった時、「この世のすべての悲しいことや悪いことを生み出している根源みたいな存在がきっといて、だからこんなにつらいことが起こるんだ」と結論付ける。すると、まさにそれを体現したようなチェーンソー男が目の前に現れ、戦う物語だ。バーバラと心の巨人のトレーラーをみたとき、すぐにこの漫画を思い出した。これは私が観なくてはならない映画だ。

 象徴するものは違えど、チェーンソー男にしろ、巨人にしろ乗り越えなくてはならない壁が、壁として現れてくれたラッキーな人たちの物語だ。

 私は羨ましかった。こいつを倒せば世界が救われるという敵が目の前に現れたことが。私だって、ずっと倒したかった。目の前に「本当の敵」が現れて、そいつに打ち勝って、強くなっているはずだった。でも私の前に現れてはくれなかった。勝つことができないまま、大人になってしまった。だからこの物語は、目に見える敵さえ現れていればそうなっていたはずの、もうひとりの私の物語だった。

大きな人

 バーバラは日々巨人と戦っている。彼女のノートの日付を見れば、それは1年以上前から始まっていることが分かる。毎日街の様子のチェックを怠らず、巨人を観察し、倒すための方法を探っている。彼女の帰る家には、大人が欠如していた。姉と兄、バーバラしか映し出されない。その生活はもう限界で、3人とも疲弊しきっていた。

 まじないや巨人を本気で信じるバーバラは、学校でも浮いた存在だ。いじめっ子から目を付けられ、スクールカウンセラーが手を貸そうとすり寄ってくる。でもバーバラには使命があるからそんなことに構っている暇はない。

 その姿の痛ましさよ。できるだけユニークで周囲から浮いた特別な存在でいなくては、大人にとって手強い子供でなくては、きっとその小さな体の形を保てなかったろう。そういう子供を私はよく知っている。

 序盤、巨人という存在はまさに「大きな人=大人」として映る。彼らの侵入を許してはならない。巨人に対してとても積極的に立ち向かう姿と違い、大人の前ではただの扱いづらい子供でしかいられないことがその無力さを際立たせている。スクールカウンセラーから、「あなたを理解したい」と手を握られたそのおぞましさに、私は両手を握り合わせてガタガタと震えていた。

 これは私自身の話だが、11才のころ両親が離婚し、姉と共に母親に引き取られた。家族みんな傷ついていて、家庭はぼろぼろだった。私はひどく母親に嫌われたが、姉もそう思っていたかもしれない。母親はすぐヒステリーを起こしたし、私も難しい子供だった。朝起きるのが遅いと首を絞めて引きずりまわされたり、蹴飛ばされたりもした。ある日学校から帰ると、私の荷物が玄関にまとめられていて父親の家に連れていかれた。
 父親はたくさんの愛情を注いでくれたが、その後も母親は介入したがった。自分の家に連れ戻したり、やっぱり追い出したり、祖父母の家に押し付けたりして私を痛めつけた。部屋の中で氷が張る、祖父母の家の納屋の2階で自分を抱きしめて眠った夜を母親は想像もしていないだろう。
 ある日中学校のスクールカウンセラーに私と母親が呼び出され、担任やたくさんの大人の前で「血のつながった親子なんだから」と、仲直りの握手をさせられた。大人の手はひどくかさかさして、ぐにぐにと弾力がなかった。

 子供が無力であることを、子供は知っている。大人なんか信用ならなくても大人がいなくては生きていけないし、大人から助けてくれるのも大人だ。子供なんてせいぜい慰め合ったり馬鹿をやって気を紛らわせるくらいしか役には立たない。じゃあ信用できる大人は誰で、信用できない大人は誰か? 大人を素直に信じられない子供は、それを調べる試金石を持っている。星の王子さまでは「大蛇の絵」であり、バーバラにとっては「巨人」だ。馬鹿にするやつは馬鹿にすればいい。でも正しい人ならきっと理解してくれる筈だ。

本当の敵

 欠如していた大人の存在が示唆されたとき、それまで描かれていた巨人が全く別の意味に転換される。そして私が勝手に自身を投影していたバーバラは、私とは全く違う敵と戦っていた。幻想なんかではない、バーバラが絶対に倒さなくてはならない敵だ。

 彼女が守ってきたもの、戦っているもの、それらが明らかになったとき彼女を応援せずにはいられない。でも応援しかできない。彼女の悲しみは彼女だけのものだ。私の両手は憎しみでいっぱいだから、多くのひとに訪れるはずの優しい葛藤すらこの胸に抱くことはない。

父の声

 私は思春期のほんの少しの間、父と二人だけで過ごした。数年ぶりに訪れたかつての自宅は、汚れていて父の悲しみが降り積もっているように見えた。お互い戸惑いを感じていたが、それでも私たちは生活した。

 バーバラが戦った最後の強大な敵は、きっと父の形をしていた。語りかける言葉は、遠くから見守る父のものだ。母の様には娘を叱ったり抱きしめたりできず、娘を愛するには離れたところから「お前は強い」と伝えるしか手段がなかった。

 映画「耳をすませば」で主人公 雫の父親は、親に内緒で何かに挑戦している娘をそっと見守り、疲れはてて眠った雫に「戦士の休息だな」と言ってそっと毛布をかける。父と娘のぎこちない距離感というのは、そういうものかもしれない。父は勝手に手を差し伸べてはくれないが、絶対に私を傷つけなかった。

もう現れることのない敵

 母と暮らした日々は憎悪に満ちていたが、笑い合うときがなかった訳ではない。よくクッキーを焼いてくれたし、貧乏な生活だったが母と姉と3人で遠出することもあった。でも私の魂には、絶対に消えない裂け目がある。それを、埋められる未来もあるのではないかと思っていた。どちらからともなく謝って、許し合い、抱きしめて「本当は大好きだった」と言い合える日がくると、心のどこかで期待していた。
 現実の母親は、60歳を前に認知症になり入院生活を送っている。もう口もきけないらしい。私はもう許すことができないだろう。でも苦痛に満ちた期待を捨てられて少しだけ楽になった。

 バーバラは私とは違っていたし、倒すべき敵が現れ、しかもそれに打ち勝ってくれて私は心から嬉しく思っている。そんな風に私もなりたかった。

 いつかバーバラが人生の耐えがたい苦痛に出会ったとき、きっと巨人は現れないだろう。

まとめ

 自分ではどうしようもない、でも乗り越えなくてはならないことに対面したとき、事実を捻じ曲げてでもつじつま合わせをするアプローチは、とても女性的だ。過去の出来事を、自分にとって都合よく解釈しなおして勝手に納得するという対処法は、自分を含め女性がよく使う手段だ。

 そういう意味では、男性にとってはファンタジー作品でありながら女性の目にはもっと現実的に映るかもしれない。少なくとも私には、目の前に敵が現れるというラッキーさえあれば、そう成り得た現実の物語だった。

 もうひとりの自分が、映画という"作品"化されたことで、やっと私は慰められているのかもしれない。敵に打ち勝っていたはずの自分と決別して、倒せないままの敵を見据え続けるだけの勇気を授けてくれた。誰しもに必要ではないが、きっとこの映画に魂を洗い流してもらえる大人がいるはずだ。

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