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写真集という媒体

「写真はスマホのちぃちゃいモニタで見るもんじゃないでしょう。」

学生だった時分に、アイドルの写真集なんかをめくっていると
「うわ…ちょっ…○○ちゃん…そんなに見つめないで…」
と悶絶必至のショットがあったりする。

でも、この体験ってスマホの画面だと出来ないし、
ライフサイズを落とし込める写真集でしか得られない感覚だと思う。

しかも、写真集の「○○ちゃん」はスマホのそれのように光っていない。
紙の上で色がきっちりと定着している。


「どの写真をセレクトして、どう並べよう」

先日、体験で入った写真サークルで、フォトブックを制作した。
僕は、写真の選択とその配置にひどく苦労した。
写真集は、作者が何かしらのテーマに基づいて、写真を選び、第三者が読んでも理解できる構成に編み、一冊へ落とし込んで作られている。起承転結が成立する立派な書籍だ。

端末の上で光る煌びやかな写真一枚一枚が、世界中に共有でき、ファストフードのようにつまみ食いできる幸せな世の中だが、
フレンチや懐石料理のようにすぐには消費できない悦びというのも、また一興である。

僕は吉祥寺の某写真集専門店に来ていた。
本物の写真集が山ほどあるお店、
なかなか踏み入るのに勇気の要る場所だ。

でも、知識はほぼゼロの僕に、失うものはない。
まずは、なんとなく視覚的に自分が気に入った本を漁ることにした。

「Stephen Shore」

「アメリカの写真家だよね〜」程度の知識しかない。

重い一冊を持ち出し、重いページをめくる。
めくるたびに現れる一枚一枚はもちろん美しい。
美しいんだけど、どうしてそのシーンを撮ったのか、
どうしてその構成なのか、どうしてこの用紙を選んだのか、
…気になってしまった。

結論、ちっとも分からなかった。
けれど、SNSの写真よりも一枚一枚が重く感じられるし、
写真1枚から時代、場所、時間、被写体を「あ〜でもない、こ〜でもない」と、想像している時間が楽しかった。
サブスク音楽配信がなかった時代に、お気に入りの1枚のCDを何遍も何遍も家でじっくり聴き入ったときの悦び、
映画館で、3時間もの長時間椅子に腰掛け、映像と音を体に染み込ませた後のあの悦び、
そういう類の楽しみだ。

購入する際、店員さんへこの本について聞いてみることにした。
すると、落ち着いた目で、慎重に言葉を選びながら、
「アメリカがある出来事をきっかけに変わってしまった様子が収められている」
「あくまでショアが雑誌への掲載のために撮影した」
というヒント2つを教えていただいた。

「そんなこと言われたら読みたくなるに決まっているんだよなぁ」
壮大な宿題を始めてみた。

それにしても読めない。
とりあえず、英語と世界史の授業の記憶を高校時代から引き戻す作業から始めないといけない。
無知って財産ですねぇ。

写真集をすぐに読解できるほどの教養は持っていない。
でも、少しずつだけど読めるようになりたい。

そして、これは密かな夢だが、
いつか写真集という媒体を用いて、何か伝えることができるようになりたい。言葉では説明できないものを、丁寧に。

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