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読書:『存在と時間』(下)M.ハイデッガー

①紹介

哲学者ハイデッガーによる『存在と時間』(下巻、細谷貞雄訳、ちくま学芸文庫、1994年)を紹介します。上巻の続きですね。下巻のテーマは現存在(=人間)の終末としての死についてであり、これまた難解な内容ですが、誰かを弔ったことのある読者にとっては上巻より読みやすいのではないでしょうか。

②考察

「死とは、現存在が存在するやいなやみずから引き受けるあり方(存在の仕方)である」
➢ ハイデッガーによれば、死は単に人間の生の終末を意味するのではなく、人間がこの「終末へ臨んでいること」だという。彼の言う「死」の帰結が終末ならば、双方を同一視することは可能だろうか。現代医療における脳死と本当の死の違いについての議論と似ている。

「現存在は、実存しつづけるかぎり、事実上、死に臨んでいる。しかし、さしあたってたいていは、頽落の様相において死に臨んでいるのである」
➢ 人間は本来、死の意味について真剣に問い生きるべき存在だが、今日それを意識している者は少ないだろう。「今じゃない、まだ先のことだ」と高を括る若者や、大切な人の死に直面したことがない者にとっては難しい試みかもしれない。自殺大国・日本ではまじめに議論されるべきことなのに。

「運命というのは、本来的覚悟性のなかにひそむ現存在の根源的経歴のことであって、そこで現存在は死へむかって自由でありつつ、相続され、しかもみずから選びとった可能性における自己自身へと、おのれを伝承するのである」
➢ 人間が生まれること自体、運命だろう。私の解釈だが、人間は死に至るまで自由であり、その自由の中で己を複製し、それに自らの意思を移し後を委ね、これを繰り返す存在なのかもしれない。昨日の自分と今日の自分とが違うというのはまさにそういうことか。

③総合

死について考えることは容易ではない。しかしそれは誰にでも訪れるもので、本来ならば常に関心が向けられていなければならないものだ。2巻にわたって説明がなされるほどに死の問題がいかに奥深いかが理解できるだろう。ハイデッガーの説に従えば、だらしない人間は生きていると同時に死んでいる存在なのだ。

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