見出し画像

キリスト教会と一定の距離を置きつつ、今日で4年目となる自分の信仰を見つめてみたら

①はじめに -信仰観-

2020年2月23日。洗礼を受けたあの主日から今日でちょうど4年目だ。自分はいわゆる「1世」と言って、親がそうでないクリスチャンだから、2世や3世のようにうまくいかないことは重々承知している。クリスチャン家庭の生まれではなく、幼い頃から教会生活に慣れ親しんだわけでもないから。それで彼らとの違いを「信仰観」に見出してきた。信仰「心」は皆に平等に与えられていても、信仰「観」は人それぞれ。国籍や性別、年齢、職業、身分、性格、境遇が違えばそれも当然のように違ってくるだろう。同じ指紋を持つ人間がこの世に2人もいず、たった1人であるように。

②考える

コロナの終息と同時に僕の信仰はどうやら薄れてしまったらしい。まるで賞味期限が切れたかのように。それ以前から、1世としての自分が2世以降に対して引け目を感じたり、嫉妬に狂うことは何度もあったから、いつしか「考える」こと重視で、ノンクリスチャンの友人と話をしたり読書することによって負の感情や信仰の暴走を抑え込んできた。知っているの。若い1世は多幸感のゆえに狂信と思考停止に陥りやすいってことを。

③アイデンティティの壁

昨年の秋に映画『鬼太郎誕生 ゲゲゲの謎』を観たあたりから、日本(人)というものへの果てしなき問いにぶち当たった。そう、アイデンティティの壁だ。ゼロヒャク思考は避け、右にも左にも寄らず、なるべく中立を目指して。

④“健全な”愛国心

「自分の生まれた国が好き」という発言は忌むべきものか。「私、お米が好き」って言うのと何が違うの?今までに旅行した北海道や沖縄、NY、Bangkok、Paris、まだ見ぬ国や地域と同じくらい僕は日本が好き。その自然や文化が長く残っていてほしいと思うのは、自国を懐かしむ気持ち(“健全な“愛国心)があるからだろう。最近はそれと幸福度の関係について研究中なんだけど、みんなは生まれ故郷のこと、どう思ってる?

⑤クリスチャンとノンクリスチャン

1世としての生き方を「こうだ」と自分に言い聞かせるのは確かに野暮で無駄かもしれない。クリスチャンとノンクリスチャン。この二つの視点を持って生きることはやはり難しいのか。それでも、考えることはこれからも忘れずにいたい。僕はキリスト教的ディレッタントなのか、それとも自分に自信がないだけ?わからないから、その時その時の思いや考えは大事にしたい。そうなければ、これらのことは書けないって!笑

⑥おわりに

やっぱり信仰ってよくわからないな…笑
しばらく遊ばせておこうか、
今はこれで、以上!


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?