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書評:『異邦人』A.カミュ

①紹介

かつてフランス領だったアルジェリア生まれの作家アルベール・カミュによる『異邦人』(窪田啓作訳、新潮文庫、1966年)を紹介します。「不条理」の体現とでも言えそうな主人公ムルソーの奇行と罪。彼のたどる末路は当然の帰結か、それとも「条理」への反逆か。この目で確かめてみましょう。

②考察

・「きょう、ママンが死んだ」
→いきなりの訃報から物語は始まる。しかし母の葬儀に際して、実の子ムルソーは何の感情も示さず、次の日の昼にはなんと海で泳ぎ、夜は恋人と快楽に耽ったのだ。否、彼の一連の行動は起こるべくして起きたものかもしれない。

・「太陽のせいだ」
→裁判中に、殺人の動機を尋ねられて、ムルソーが返した言葉。面識のないアラビア人の体を銃で4発も撃ち抜くあたり、強固で明確な殺意があったと受け取れるだろう。しかし彼は自らの罪を正当化することも悔いることもなく、虚無であり続ける。先入観を排することの難しさ。

・「一切がはたされ、私がより孤独でないことを感じるために、この私に残された望みといっては、私の処刑の日に大勢の見物人が集まり、憎悪の叫びをあげて、私を迎えることだけだった」
→だとすればムルソーは生きている限り孤独ということになる。彼にとって死は解放に他ならない。「愉快犯」の一言で片づけるのは簡単だが、自ら命を絶たず、他者の手によって死ぬことを選んだ点に、無神論者ムルソー(あるいはカミュの)有神論者としての一面をほんのわずかに見出すことができよう。

③総合

精神医学の観点から、ムルソーが「解離」を起こしているか、あるいは発達障害者ではないかと勘づく読者は一定数いるだろう。怪作ゆえに読者の数だけ解釈が生まれる。「異邦人」がなるものがアラビア人を指すのか、それとも裁判の関係者(第三者)が見たムルソーの印象を一言で表したものか、このあたりも議論の的になり得るだろう。私たち読者の視点はこの第三者のそれに限りなく近いのではないか。カミュによる実存への挑戦は、現代作家(特に村田沙耶香氏)にも多大な影響を与えていると言っても過言ではない。


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