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読書:『善の研究』西田幾多郎

①紹介

哲学者の西田幾多郎による『善の研究』(岩波文庫、2012年)を紹介します。東洋と西洋。双方の哲学の影響を多分に受けつつ、それらを見事に日本思想に組み入れた西田の語る「善」とは何か。その根底に、通常の経験を超えた「純粋経験」を見出すことができるでしょう。

②考察

「自己の意識状態を直下に経験した時、未だ主もなく客もない、知識とその対象とが全く合一して居る。これが経験の最醇なる者である」
➢ このように主体(知覚する側、例えば人)と客体(知覚される側、例えば物)の区別なく、その前段階において双方が合わさっていることを、西田は「純粋経験」(=事実)と呼ぶ。何かを見聞きすることは決して一方的な行為とは言えず、対象が物であっても、人間の場合と同じように生気を帯び、こちらに向かって何かを訴えかけるのだろう。

「善とは一言にていえば人格の実現である」
➢ ここでいう人格とは「内面的要求の声」であり、意識の発展形である。西田の説に従えば、善に至るのは、自分の心の声に忠実に従う正直な者ということになるだろう。周りの意見に流されず、常に自分の意志を貫き通せば必ずや届く領域と言えるかもしれないが、当然容易ではないだろう。個人と善との間にはどうしようもないほどに巨大な壁があるように思われる。

「我は神を知らず我ただ神を愛すまたはこれを信ずという者は、最も能く神を知り居る者である」
➢ 人間が神を理解し難いのは、それが知覚(見る、聞く)の対象にならない=経験という小さな枠組みで捉えることができないからだろう。逆にその過程を経て生まれたものがあるとすれば「宗教」ではなかろうか。だが神も、それへの愛も信仰も経験とは相入れない。そうだとわかれば、一途に神を愛し信じるかしかないのだ。

③総合

絵画を観たり、音楽を聴くことは何でもない行為のように思われるが、西田の説に従えば、特別な意味を持っていることが理解できよう。疑問があるとすれば、主客の関係が成り立つ一般的な経験の前になぜ純粋経験なるものが生じるのか。また、これが事実と同義ならば、一般的な経験は事実でなく何であるのかという点である。

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