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読書:『ニコマコス倫理学』(下)アリストテレス

①紹介

哲学者アリストテレスによる『ニコマコス倫理学』(下巻、高田三郎訳、岩波文庫、2009年)を紹介します。前回読んだ上巻の続きですね。古典の中の古典である本書で語られるのは「快楽」、「愛(フィリア)」、そして「幸福」について。どんな話が聞けるでしょうか。

②考察

「放埒なひとは、(略)後悔することのないひとである。彼の行動は自分の『選択』に忠実であるところからきているのだからである。抑制力なきひとは、これに対して、すべて後悔することを知っている」
➢ この「放埒」は辞書どおりの「だらしない」や「道を外れた」という否定的な意味ではなく、「抑制力がある」と肯定的に解するのが適当か。それは自由奔放に見えて実は道理に適った生き方かもしれない。自分の「選択」に従うことが決して容易ではないことを踏まえれば。

「愛とは自他の共同なのである」
➢ ここでいう「愛(フィリア)」はしばしば「友愛」と訳される。アリストテレスの説に従えば、それはプラトンが『饗宴』の中で説いた一方的な愛(エロス)ではなく、双方の意思が一致して初めて成立するものであって、ある種の両思い、または「契約」に等しい。

「智者こそが最も神に愛さるべきひとなのであり、同じくまた智者が、おもうに、最も幸福なひとでもある」
➢ 上巻の終章においても同様のことが説かれている。これはその要約か。そしてそれによれば、智者は哲学者と同義であり、智者の司るものこそ「状態」としての智慧である。ならば哲学者というのも一つの「状態」と言えるのではないか。だからそれには誰もがなれるものだと私は考える。もちろん、哲学者という状態でいられる時間は人によって長かったり短かったりする。この精神的な営みを実現することができる点は人間の数少ない特質の一つだろう。コツさえあれば、誰でも幸福になれるのだ。

③総合

アリストテレスの言う「神」は、信徒を「求める」能動的な一神教の神とは異なり、自分の意思を重んじ、それに従い動く智者の出現を「待つ」受動的な神なのだろう。その神から愛を受けた時、人間は自らが幸福であることを悟るのかもしれない。

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