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「他人は変えられないが自分は変えられる」  これは解決策と言えるのか?

この言葉は、対人関係で問題が発生した場合によく使われる。
ネガティブに解釈すれば、「自分が折れろ(譲歩しろ)」と言う事だ
それは理不尽な事だが、問題解決にはこの様な考え方が合理的であろうと言うわけだ。 つまり「私は賢くて合理的に物を考える事ができる。だから、自分の考え方を変えてみる事で解決する」という事だ。

しかし、こんな不合理でストレスが溜まる考え方はいかがなものかと思う。
そもそも、他人と同じく、自分を変える事なんて簡単に出来るわけがない。

この言葉の現実は、結局は自分を変える事はできず単に折れているだけで、この言葉「他人は変えられない・・・」という論法を納得する事で、感情を静めているだけにすぎない。

この言葉を実行する前に、きちんと話し合えているのか、そこが問題である。
なぜ対立するのか。真の原因がわかっているか。
価値観の問題なのか。損得の問題なのか。誤解なのか。

理論的にどちらが正しいのかを明確にできる場合、どちらが正すべきなのかは決められる。 しかし損得勘定の場合は話し合いにくい。でも本音で話し合えば妥協点が見つかるかもしれない。価値観の違いも話し合いで認識しあえばいい。解決はしないだろうが、少しはすっきりする。

兎に角、本当は解決できる手段があるのに、それをやらない。
何が問題なのかをきちんと把握できていない。
それをせず、「他人は変えられない・・・」と言ってるならば大間違いだ。

いくら話し合ったって解決はしない、と言うかもしれない。
ある意味その通りだ。しかし、解決しなくてもお互い分かり合える事はできる。
問題の解決だけが解決ではない。分かり合える事だけでも解決と言えるのである。

つまり、この言葉を発動するのは最後の最後である。最後まで分かり合えなかった場合である。

自分が折れる事が大きなストレスであるにもかかわらず、安易にこの言葉に従うのは愚かだ。 大したストレスにならないならそうすればいいが、そうではないのなら、この言葉に従う前にやっておく事は山ほどあるはずだ。

ありがたい言葉を見るたびに思うのは、理論的には正論にみえても、実際の問題に当てはめると必ずしもそれが正しいとは言えないと言う事。 総論賛成 各論反対である。

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